第12師団 (日本軍)
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第12師団 (日本軍) | |
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創設 | 明治31年(1898年)10月1日 |
廃止 | 昭和20年(1945年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
人員 | 約25,000名 |
所在地 | 小倉-久留米-満洲-台湾 |
編成地 | 小倉 |
通称号/略称 | 剣 |
補充担任 | 第12師管・久留米師管・久留米師管区 |
最終上級単位 | 第10方面軍 |
最終位置 | 台湾 |
戦歴 | 日露-シベリア-日中-太平洋戦争 |
第12師団(だいじゅうにしだん)は、1898年から1945年まであった大日本帝国陸軍の師団の一つである。兵士の徴兵区は主に北部九州である。日露戦争・シベリア出兵・日中戦争・太平洋戦争で戦った。1962年から2001年まであった陸上自衛隊の第12師団と継承関係はない。
歴史
[編集]設置
[編集]第12師団は、日清戦争後に新設された6個師団の一つであり、1898年(明治31年)11月21日に師団司令部、監督部が開庁した[1]。司令部の所在地は福岡県小倉町の小倉城内で、その他部隊・施設も城内に集中したが、郊外の企救郡北方村にも兵営を置いた[2]。
所属の兵士は第12師管から徴兵され、主に九州北部(および関門海峡に面した山口県の一部)を本籍とする男子からなった。
日露戦争
[編集]日露戦争では、1904年(明治37年)の開戦直後に動員命令を受けて出征した。長崎港で乗船し、朝鮮の仁川に上陸して北上、第1軍の隷下に入って鴨緑江を越えた。以後、満洲で遼陽会戦などの諸会戦に加わった[3]。
シベリア出兵
[編集]- 1918年(大正7年)8月2日:第12師団は動員を命じられシベリア出兵に参加した。門司港で乗船した師団は、ウラジオストックに上陸し、シベリアの各地を転戦した[4]。
- 1918年8月19日:師団が出征したあとの小倉には、留守第12師団が設けられた。留守第12師団兵器部が留守師団司令部内に移転した[5]。
- 1919年(大正8年):他師団と交代し、7月20日に復員が完結した[6]。
小倉から久留米に移転
[編集]日中戦争
[編集]- 1932年(昭和7年)
満洲駐屯
[編集]- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年):「東寧」に移駐。
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)7月:関東軍特種演習で動員。欠員補充、各部補充増強、準戦時編成。
太平洋戦争
[編集]- 開戦後も満洲国内にて対ソ戦の訓練や抗日パルチザン掃討等の治安維持活動に従事していた。
- 1943年(昭和18年):在満師団は駐屯体制に編成縮小。
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年):連合国軍が台湾を通り越して沖縄本島に上陸したため、第12師団は陣地構築中の状態で戦うことなく終戦を迎える。
歴代師団長
[編集]- 田村寛一 中将:1898年(明治31年)10月1日 - 1899年(明治32年)3月6日
- 井上光 中将:1899年(明治32年)3月13日 - 1906年(明治39年)7月6日
- 浅田信興 中将:1906年(明治39年)7月6日 - 1910年(明治43年)8月26日
- 安東貞美 中将:1910年(明治43年)8月26日 - 1912年(明治45年)2月14日
- 山根武亮 中将:1912年(明治45年)2月14日 - 1912年(大正元年)11月27日
- 内山小二郎 中将:1912年(大正元年)11月27日 - 1913年(大正2年)8月22日
- 藤井茂太 中将:1913年(大正2年)8月22日 - 1914年(大正3年)5月11日
- 柴五郎 中将:1914年(大正3年)5月11日 - 1918年(大正7年)7月2日
- 大井成元 中将:1918年(大正7年)7月2日 - 1919年(大正8年)8月26日
- 木下宇三郎 中将:1919年(大正8年)8月26日 - 1921年(大正10年)7月20日
- 森岡守成 中将:1921年(大正10年)7月20日 - 1923年(大正12年)8月6日
- 磯村年 中将:1923年(大正12年)8月6日 - 1926年(大正15年)7月28日
- 竹上常三郎 中将:1926年(大正15年)7月28日 - 1928年(昭和3年)3月8日
- 金山久松 中将:1928年(昭和3年)3月8日 - 1930年(昭和5年)8月1日
- 木原清 中将:1930年(昭和5年)8月1日 - 1932年(昭和7年)2月29日
- 杉山元 中将:1932年(昭和7年)2月29日 - 1933年(昭和8年)3月18日
- 大谷一男 中将:1933年(昭和8年)3月18日 - 1935年(昭和10年)3月15日
- 香月清司 中将:1935年(昭和10年)3月15日 - 1936年(昭和11年)3月7日
- 清水喜重 中将:1936年(昭和11年)3月7日 - 1937年(昭和12年)3月1日
- 山田乙三 中将:1937年(昭和12年)3月1日 - 1938年(昭和13年)1月8日
- 上村清太郎 中将:1938年(昭和13年)1月8日 - 1940年(昭和15年)3月9日
- 河辺正三 中将:1940年(昭和15年)3月9日 - 1941年(昭和16年)3月1日
- 笠原幸雄 中将:1941年(昭和16年)3月1日 - 1942年(昭和17年)8月1日
- 沼田多稼蔵 中将:1942年(昭和17年)8月1日 - 1943年(昭和18年)10月29日
- 人見秀三 中将:1943年(昭和18年)10月29日 - 終戦
歴代参謀長
[編集]- 山根武亮 工兵大佐:1898年(明治31年)10月1日 - 1900年4月25日[8]
- 楠瀬幸彦 砲兵大佐:1900年(明治33年)4月25日 - 1901年6月28日[9]
- 小原伝 砲兵中佐:1901年(明治34年)6月28日 - 1906年7月6日[10]
- 足立愛蔵 砲兵大佐:1906年(明治39年)7月6日 - 1909年1月14日[11]
- 木田伊之助 砲兵中佐:1909年(明治42年)1月14日 - 1912年1月27日[12]
- 木下宇三郎 砲兵大佐:1912年(明治45年)1月27日[13] - 1913年7月3日[14]
- 岡本茂若 歩兵大佐:1913年(大正2年)7月3日 - 1915年8月10日[15]
- 岡田重久 歩兵大佐:1915年(大正4年)8月10日 - 1917年8月6日[16]
- 松山良朔 歩兵大佐:1917年(大正6年)8月6日 - 1919年4月15日[17]
- 稲垣清 歩兵大佐:1919年(大正8年)4月15日 - 1922年2月8日[18]
- 山本宜一 歩兵大佐:1922年(大正11年)2月8日 - 1923年3月17日[19]
- 水町竹三 歩兵大佐:1923年(大正12年)3月17日 - 1924年2月4日[20]
- 岸孝一 歩兵大佐:1924年(大正13年)2月4日 - 1928年3月8日[21]
- 森下千一 歩兵大佐:1928年(昭和3年)3月8日 - 1929年3月16日[22]
- 平松英雄 歩兵大佐:1929年(昭和4年)3月16日 - 1931年8月1日[23]
- 牧野正迪 航空兵大佐:1931年(昭和6年)8月1日 - 1932年10月3日[24]
- 石田保道 砲兵大佐:1932年(昭和7年)10月3日 - 1935年3月15日[25]
- 篠原次郎 歩兵大佐:1935年(昭和10年)3月15日 - 1936年8月1日[26]
- 中村正雄 歩兵大佐:1936年(昭和11年)8月1日[27] - 1938年6月
- 中永太郎 歩兵大佐:1938年(昭和13年)6月11日 - 1939年(昭和14年)6月23日[28]
- 不詳
- 井原潤次郎 大佐:1940年(昭和15年)12月1日 - 1942年7月9日[29]
- 志村文雄 大佐:1942年(昭和17年)7月9日 - 1944年1月7日[30]
- 村田定雄 大佐:1944年(昭和19年)1月7日[31] - 1945年2月20日[32]
- 若山庸一 中佐:1945年(昭和20年)2月20日 - 終戦[33]
所属部隊
[編集]1898年(明治31年)の師団創設時と日中戦争勃発前には第12師団は次のように配備されていた(括弧内の地名は衛戍地)。また1940年(昭和15年)には師団の衛戍地が久留米から満洲に変わったが、補充は内地より行われた(終戦時の括弧内の地名は補充地)。
1898年(明治31年) |
1937年(昭和12年) |
1945年(昭和20年) |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『官報』第4619号(明治31年11月21日)、第4622号(明治31年11月25日)。
- ^ 坂本悠一「北九州における軍隊と戦争」、林博史・編『大陸・南方防諜の拠点』。15頁。
- ^ 坂本悠一「北九州における軍隊と戦争」、林博史・編『大陸・南方防諜の拠点』、17 - 18 頁。
- ^ 坂本悠一「北九州における軍隊と戦争」、林博史・編『大陸・南方防諜の拠点』、20頁。
- ^ 『官報』第1822号、大正7年8月28日。
- ^ 『官報』第2097号、大正8年8月1日。
- ^ 坂本悠一「北九州における軍隊と戦争」、林博史・編『大陸・南方防諜の拠点』21頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』49頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』58頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』65頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』68頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』89-90頁。
- ^ 『官報』第8580号、明治45年1月29日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』80頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』95頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』108頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』119頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』127頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』143頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』152頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』179頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』189頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』198頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』218頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』234頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』253頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』338頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』351頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』392頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』432-433頁。
- ^ 「第5号 昭和19年1月11日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120900200
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』434頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』465頁。
参考文献
[編集]- 坂本悠一「北九州における軍隊と戦争 「軍都小倉」の成立・衰退・再生」、林博史・編『大陸・南方膨張の拠点』(地域のなかの軍隊6 九州・沖縄)、吉川弘文館、2015年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
関連項目
[編集]- 大日本帝国陸軍師団一覧
- 山陽鉄道列車強盗殺人事件 - 日本初の鉄道車内で発生した殺人事件。被害者が本師団所属の中隊長だった。