西寛二郎
西 寛二郎 にし かんじろう | |
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生誕 |
1846年4月5日 日本、薩摩藩 |
死没 |
1912年2月28日(65歳没) 日本、東京都 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1871 - 1911 |
最終階級 | 陸軍大将 |
墓所 | 青山霊園 |
西 寛二郎(にし かんじろう、弘化3年3月10日(1846年4月5日) - 1912年(明治45年)2月28日)は、日本の陸軍軍人。教育総監、遼東守備軍司令官、軍事参議官等を歴任する。官位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。
経歴
[編集]薩摩藩士、西太郎兵衛の長男として生まれ、幼少の頃から島津久光の下に仕えた。戊辰戦争等転戦し明治4年(1871年)7月、陸軍に入る。初任は陸軍中尉で御親兵2番大隊付を命ぜられた。同年12月、陸軍大尉に進み1873年(明治6年)12月、陸軍少佐に任ぜられる。1874年(明治7年)の佐賀の乱には征討参謀として出征、続く台湾出兵にも従軍し1877年(明治10年)の西南戦争では別働第1旅団参謀として参戦するが、この時負傷する。
その後、近衛幕僚参謀・参謀本部管東局員を経て1881年(明治14年)2月、歩兵第11連隊長に就任し、翌年、陸軍大佐に進む。大佐として名古屋鎮台参謀長、東京鎮台参謀長、参謀本部第1局長等を経験し1889年(明治22年)8月、陸軍少将に任ぜられ歩兵第11旅団長に補される。翌年6月に歩兵第2旅団長に移り、この時日清戦争に出征する。この戦役では山地元治中将指揮の下金州・旅順・田庄台を攻略し、その功をもって1895年(明治28年)8月、男爵を授けられ華族に列せられる。
1896年(明治29年)5月に威海衛占領軍司令官となり、同10月、陸軍中将に進み、乃木希典の後任として第2師団長に就任する。1904年(明治37年)2月の日露戦争に出征し功を挙げ同年6月に陸軍大将に進級する。同年9月の遼東守備軍司令官を経て1905年(明治38年)5月9日、陸軍三長官の一角教育総監に就任する。翌年4月には功一級金鵄勲章を受章し、1907年(明治40年)の伏見宮貞愛親王の渡欧に当たっては随員を仰せ付けられる。帰国後の9月子爵に陞爵し、1908年(明治41年)の軍事参議官の後1911年(明治44年)3月後備役となる。1912年(明治45年)2月28日薨去。没後に勲一等旭日桐花大綬章を贈られる。
軍歴
[編集]- 明治 4年(1871年)
- 7月25日 - 中尉
- 12月 4日 - 大尉
- 明治 6年(1873年)12月14日 - 少佐
- 明治12年(1879年) 3月20日 - 中佐
- 明治15年(1882年) 2月 6日 - 大佐
- 明治22年(1889年) 8月24日 - 少将
- 明治29年(1896年)10月14日 - 中将
- 明治37年(1904年)6月 - 大将
- 明治38年(1905年)5月9日 - 教育総監
- 明治44年(1911年)3月10日 - 後備役[1]
栄典
[編集]- 位階
- 1874年(明治7年)2月18日 - 従六位[2]
- 1889年(明治22年)9月27日 - 従四位[3]
- 1894年(明治27年)10月26日 - 正四位[4]
- 1899年(明治32年)11月30日 - 従三位[5]
- 1904年(明治37年)6月16日 - 正三位[6]
- 1909年(明治42年)7月10日 - 従二位[7]
- 1912年(明治45年)2月28日 - 正二位[8]
- 勲章等
- 1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[9]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]
- 1895年(明治28年)
- 1903年(明治36年)5月16日 - 勲一等瑞宝章[14]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功一級金鵄勲章・旭日大綬章・明治三十七八年従軍記章[15]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 子爵[16]
- 1912年(明治45年)2月28日 - 旭日桐花大綬章[8]
親族
[編集]- 後を嗣子の鯱男が継いだ。陸軍歩兵中尉となるが、1915年に隠居した[17]。墓所は多磨霊園に所在。
- 六男 勝男 - 兄・鯱男の隠居後、家督を継承[17]。勝男は陸軍士官学校を28期で卒業し階級は陸軍大佐に至る。
- 長女 アイ - 佐治喜一陸軍少将に嫁ぐ[17]。佐治は会津藩所縁の人物で稚松会会員[18]。
- 三女 ハル - 若尾謹之助(実業家・甲州財閥若尾家)に嫁ぐ[17]。
出典
[編集]- ^ 『官報』第8313号、明治44年3月11日。
- ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号110
- ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
- ^ 『官報』第3401号、1894年10月27日。
- ^ 『官報』第4926号「叙任及辞令」1899年12月1日。
- ^ 『官報』第6288号「叙任及辞令」1904年6月17日。
- ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
- ^ a b 『官報』第8606号「叙任及辞令」1912年2月29日。
- ^ 『官報』第548号「賞勲叙任」1885年5月2日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
- ^ 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』下巻、298頁。
- ^ 『稚松会名簿』(昭和12年12月)
参考文献
[編集]- 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 378頁
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
軍職 | ||
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先代 寺内正毅 |
教育総監 第4代:1905年 - 1908年 |
次代 大島久直 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
子爵 西(寛二郎)家初代 1907年 - 1912年 |
次代 西鯱男 |
先代 叙爵 |
男爵 西(寛二郎)家初代 1895年 - 1907年 |
次代 陞爵 |