阿部房次郎
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あべ ふさじろう 阿部 房次郎 | |
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生誕 |
1868年2月11日 滋賀県彦根市 |
死没 | 1937年5月12日(69歳没) |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
出身校 | 慶應義塾正科[1] |
配偶者 |
ゑき ゑみ |
子供 |
信吉(ゑきとの子) 阿部孝次郎(ゑみとの子) ふみ(ゑみとの子) 藤造(ふみの夫、娘婿) 荘吉(ゑみとの子) まさ(ゑみとの子) |
阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1937年(昭和12年)5月12日[2][3])は、日本の実業家、政治家。族籍は滋賀県平民[4]。
来歴
[編集]近江国彦根(滋賀県彦根市)出身。辻兼三の長男[5]。阿部家の養子となり、1896年(明治29年)に分家して一家を創立する[5]。
1894年(明治27年)、近江銀行、1900年(明治33年)、近江精油取締役、1901年(明治34年)、阿部製紙(王子製紙の前身のひとつ)専務、1904年(明治37年)経営不振の金巾製織に専務として入り、再建に尽力する。その後金巾製織は1906年(明治39年)に大阪紡績と、1914年(大正3年)に三重紡績と合併して東洋紡績が発足、山辺丈夫社長の下で専務となった。1926年(大正15年)に社長に就任。
また昭和レーヨン、裕豊紡各社長、上毛電力、王子製紙、湖東紡各取締役、大阪商工会議所顧問、大日本紡績連合会会長などを歴任した。
1931年(昭和6年)12月12日には貴族院勅選議員となり[6]、同和会に所属し死去するまで在任した[3][7]。
人物
[編集]美術蒐集家としても知られる[8]。
インドやビルマをはじめ海外への販路を開き、綿布の輸出を促進する[2]。
家族・親族
[編集]- 阿部家
- 養父・市太郎(1840年 - 1923年、金巾製織の発起人)[2]
- 妻・ゑき(1883年 - ?、愛知、宮川彦一郎の妹)[4][5]
- 長男・孝次郎[5](1897年 - 1990年、東洋紡績社長)
- 二男・荘吉(1899年 - ?)[5]
- 三男・信吉(1905年 - ?)[5]
- 長女・ふみ(1898年 - ?、分家して村田藤造を入夫に迎える)[5]
- 二女・まさ(1901年 - ?、阿部尚蔵の養子となる)[5]
- 孫[5]
脚注
[編集]- ^ a b 『慶応義塾総覧 大正3年』第二十二章 卒業生160頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月17日閲覧。
- ^ a b c 阿部 房次郎とはコトバンク。2020年12月17日閲覧。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』90頁。
- ^ a b 『人事興信録 第7版』あ18頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第8版』ア26 - 27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月17日閲覧。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、39頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。
- ^ 爽籟館主人・阿部房次郎の中国書画蒐集について - 大阪市立美術館
参考文献
[編集]- 慶応義塾編『慶応義塾総覧 大正3年』慶応義塾、1914年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
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