風船の歴史
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風船の歴史(ふうせんのれきし)では、世界および日本国内における風船・気球・飛行船の普及や開発・普及に伴う歴史的背景について述べる。
年表
[編集]風船の文化は気球・飛行船の歴史とも関連しているので、気球・飛行船の歴史あるいは航空に関する年表も併せて参照のこと。
17世紀以前
[編集]- 紀元前220年頃: ギリシャの数学者アルキメデスが、水中の物体の浮力則のアルキメデスの原理を発見する。
- 3世紀: 諸葛亮(諸葛孔明)が通信手段として無人の熱気球を発明したといわれる。(アジア地域の祝祭に使われる天灯の由来とされる。)
- 1493年: イタリアの探検家・商人のクリストファー・コロンブスが第二次アメリカ航海(〜1496年)に出発。途中でジャマイカの原住民が跳ねる黒い球で遊ぶ光景を目撃。ニーニャ号の船員が球を持ち帰るが、その当時は用途を見いだせなかった。
- 1643年: イタリアの物理学者エヴァンジェリスタ・トリチェリが一端を閉じた約1mのガラス管に水銀を入れ、逆さにするトリチェリの真空実験を行う。
- 1657年 - 1663年: ドイツの物理学者オットー・フォン・ゲーリケがマクデブルクの半球の実験を行う。
- 1662年: アイルランド出身の物理学者ロバート・ボイルが、「温度が一定のとき、理想気体の体積は圧力に反比例する」ことを示したボイルの法則を発表。
- 1670年: イタリアのイエズス会士フランチェスコ・ラナ・デ・テルツィがマクデブルクの半球の実験に刺激され、軽飛行器の「真空飛行船」の可能性を提唱する。
18世紀
[編集]- 1709年: 神父バルトロメウ・デ・グスマンがポルトガルで空中船「パッサローラ」(Passarola)を考案し、燃焼により球体を浮かせる公開実験を行う。
- 1770年: イギリスの化学者・物理学者のヘンリー・キャヴェンディッシュが水素を発見する。
- 1770年: イギリスの化学者のジョゼフ・プリーストリーにより未加硫の生ゴムが鉛筆の字消しの作用を持つことを発見[6]。
- 1775年 - 1783年: アメリカ独立戦争が起き、戦争でフランス軍がスペイン軍に加わりイギリス軍と戦う[1][5]。
- 1782年: イタリア出身の物理学者、自然科学者のティベリオ・カバロ(Tiberius Cavallo)が、水素で紙袋を浮かせることに失敗するも、シャボン玉を浮かせることを確認[9]。
- 1783年: イギリスの化学者・物理学者のヘンリー・キャヴェンディッシュが水素の大量製造方法を発見する[2]。
- 1783年6月5日: フランスのアノネイの製紙業者の息子モンゴルフィエ兄弟が、地元で無人の熱気球[3]を飛ばし成功する[4]。
- 1783年8月27日: ジャック・シャルルとロベール兄弟がフランスの首都パリのシャン・ド・マルス公園(現在のエッフェル塔のある場所)で30万人もの群衆の中でガス気球を飛ばす[5][14]。
- 1783年9月19日: モンゴルフィエ兄弟がヴェルサイユ宮殿で大群衆の中、動物(ニワトリ、アヒル、ヒツジ)を乗せた熱気球を飛ばす[6]。
- 1783年11月21日: モンゴルフィエ兄弟が製作したわらを燃料にした熱気球「グロブ」号[7]に貴族で科学者であり歴史家のジャン=フランソワ・ピラートル・ド・ロジェ[8]とダルランド侯爵が乗り込み有人飛行に成功[9]。
- 1783年12月1日: ジャック・シャルルがロベール兄弟の兄コンビとともにチュイルリー公園で気球に搭乗し、水素ガス気球[10]による有人飛行に成功する[11]。以降ヨーロッパ各国でガス気球が冒険や軍事に用いられるとともに、気球ショー[12]などの民間の気球ブーム[13]が起きる[5]。
- 1784年2月: 日本の江戸・日本橋でオランダの甲比丹ヘンドリック・カスペル・ロンベルフにより昨年有人飛行に成功した空飛ぶ船「リュクトバル」の話題がパリの新聞をもとにオランダ語に訳され日本の蘭学者にもたらされる[10][14]。しかし水素という元素や飛行する詳細な仕組みは約50年後の幕末まで日本には伝わらず、長い間「真空飛行船」説が流布されることになった。
- 1785年1月7日 ジャン=ピエール・ブランシャールが気球製作のスポンサーとなったアメリカ人科学者ジョン・ジェフリーズと共にドーヴァー海峡(イギリス〜フランス)の横断飛行に成功する[15][14]。
- 1787年: ジャック・シャルルが「気体が一定圧力のもとでは温度に比例し、その体積を増加する」というシャルルの法則を発見。1802年にジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックにより発表され、気体の一般則のボイル=シャルルの法則が導き出される。
19世紀
[編集]- 1801年: イギリスの科学者ジョン・ドルトンが、気体分圧の法則のドルトンの法則を発表する。
- 1803年: 帝政ロシアのペテルブルク(現在のサンクトペテルブルク)で仙台藩の漂流民の津太夫らがガス気球の飛翔を見学する。
- 1804年: 帝政ロシアが通商協定を求め、長崎に訪れた第2次遣日使節のニコライ・レザノフらの使節団の団員が紙製の小型の無人熱気球を揚げる。
- 1805年: イギリス人の科学者ガフ(J. Gough)がゴムを断熱的に伸張すると発熱し、圧縮すると冷却する現象「ガフ=ジュール効果」を発見する。
- 1808年: ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックが2種以上の気体の化学反応の基本則の気体反応の法則を発表。
- 1811年: イタリアの化学者アメデオ・アヴォガドロが「同一の圧力、温度、体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれる」とする仮説を提案。のちに認められ、アボガドロの法則として知られるようになる。
- 1820年: トマス・ハンコックにより木製の素練機(ゴム用密閉型混練機)が製作され、未加硫の生ゴムによる糸ゴム製造が実用化される[6]。
- 1823年: マッキントッシュにより素練した生ゴム原料による未加硫ゴムで作られた防水布が実用化される。
- 1824年: イギリス人の化学・物理学者マイケル・ファラデーが水素ガスの特性を見る実験のための袋として2枚の未加硫のゴムシートに打ち粉をして貼り合わせたゴム気球を製作。ゴム風船製造の嚆矢とされる。
- 1825年: イギリスのトマス・ハンコック(Thomas Hancock)社により、生ゴム入りボトルとシーリング材入り注射器がセットされた購入者製作型の風船キットが発売。
- 1834年: 日本の宇田川玄真、宇田川榕菴により出版された薬学書「遠西医方名物考 補遺8」に水素が登場[16]。基本元素であり可燃性で気球を浮かせる浮遊ガスであることが記される。
- 1839年: アメリカのチャールズ・グッドイヤーはゴムの加硫法(熱加硫法)を偶然的に発見[6]。(生ゴム製の靴に硫黄・鉛白の混合物が付着したままストーブの側に放置し加熱によりゴムが硬化。)
- 1843年: イギリスのトマス・ハンコックがエボナイトを発明。
- 1846年: イギリスのパークス(Alexander Parkes)により加硫法のひとつである冷加硫法が発見される[17]。固体の生ゴムを揮発油で溶かし、ゴム液に数回浸した型を陰干しし、塩化硫黄などに短時間さらすことにより加熱することなく加硫ができるもので、ゴム風船などの浸漬による薄層製品の製造に有効であったが、製法技術が日本に伝わったのはその約60年後の明治30年代以降である。
- 1847年: イギリス・ロンドンのJ.G.イングラム社により、現在の既製品タイプの最初のゴム風船が製造される。
- 1853年: イギリスのW.Johnsonにより、採取されたゴムラテックスの液の酸性化による凝縮を防ぐためにアンモニアを添加する方法が特許として申請される[18][13]。
- 1858年: フランスのナダールがパリ市街で係留気球による世界初の空中撮影を行った。
- 1860年4月26日: 万延元年遣米使節がアメリカ・フィラデルフィアで気球の飛翔を見学する。
- 1861年: アメリカ国内で南北戦争が起き、主に北軍で偵察目的に気球が用いられる[19]。
- 1868年: 日本の横浜[20]と大阪[21]でゴム風船の販売にまつわる新聞記事が相次いで掲載される。[4][7]
- 1868年: フランスのピエール・ジャンサンとイギリスのノーマン・ロッキャーが日食の輝線スペクトルから未知の元素としてヘリウムの存在を発見。
- 1870年 - 1871年: 普仏戦争で包囲されたパリ市内から気球郵便として人と鳩と郵便物を乗せたガス気球が飛ばされた。[22]
- 1872年: 日本でゴム風船が球紙鳶(たまだこ)という名前で流行。
- 1872年: 植物学者のコリンズが数百種のゴムを産出する植物の中でパラゴムノキ(ヘベア・ブラジリエンシス)が最良であるとする報告書をまとめる。
- 1875年春: 旧開成学校製作学教場で教師の市川盛三郎が赤ゴムの小球を作り、水素ガスを満たして飛揚させる。翌年以降露店や縁日で子どもの玩具として流行する[23][4]。
- 1876年: ヘンリー・ウィッカムによりブラジルのアマゾン川流域のパラゴムノキの種子のイギリスへの密輸に成功。従来のブラジルのアマゾンに自生する複数種(インディアラバーなど)の樹液による野生ゴムから、プランテーション化された単一種のパラゴムノキによる天然ゴムへの原料の転換が始まる。
- 1877年5月3日: 工部大学校で軽気球の実験が行われ、空気より軽い気体といわれていた水素、石炭ガス、アルコール蒸気を入れた3つの気球で検分が行われる。
- 1877年: 現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において士族反乱による西南戦争が起きる[24]。
- 1877年5月23日: 工部大学校が製作した2つの気球を東京・築地の海軍兵学校で明治天皇の臨幸の中で気球の飛揚試験を行う。[25](日本の軍用気球の最初とされる。)
- 1877年12月6日: 島津製作所を創業した 初代の島津源蔵が水素気球を製作し、京都府の仙洞御所で有人飛行が行なわれ成功する。
- 1878年6月10日: 東京・市ヶ谷の陸軍士官学校の開校式で、陸軍士官学校が製作したガス気球[26]の試揚がおこなわれ、有人飛行で上空約100mまで上昇する。
- 1880年: アメリカのダニエル・ラグルス(Daniel Ruggles)が、気球で爆薬を上空高く釣り上げ、遠隔操作で爆発させる人工降雨法を考案。実験を行い発明特許を得る。
- 1886年: 日本で最初のゴム工業会社「三田土ゴム製造株式会社」が創立される[27]。
- 1887年: 明治20年頃、日本で毛笛が流行する。
- 1888年: イギリスでスコットランド人で獣医師のジョン・ボイド・ダンロップが空気入りのタイヤを発明。1890年代にサイクリングブームをヨーロッパとアメリカにもたらす。
- 1890年: イギリス人の興行師、気球商人のパーシヴァル・スペンサー(en:Percival G. Spencer)の風船乗り興業が東京・上野などで開催[28]。同年12月17日にはアメリカの飛行団トーマス・スコット・ボールドウィンの興業も行われ、翌年以降ゴム風船、紙風船(紙手鞠)、熱紙風船、紙製パラシュート玩具や風船かんざしなどの装飾品、文芸[29]などが流行する[4]。
- 1892年: フランスの科学者エルミート(Gustave Hermite)により自記温度計と気圧計を搭載した最初の探測気球の飛揚が行われる[12]。
- 1895年: イギリスのウィリアム・ラムゼー卿によりウラン鉱石からヘリウム単体が取り出される。
- 1896年: ゴム景気で沸き立つブラジル・アマゾンのゴム集積地マナウスに当時は珍しいオペラホールのアマゾナス劇場が完成。しかし1910年代には東南アジアなどのゴムプランテーションによる原料がゴム市場を占めるようになり、マナウスのゴム景気が終息する。
- 1897年: 明治30年頃に日本でドイツ製ゴム風船が流行し、流通量が30万グロスを超えた[4]。一方でこの頃まで国産のゴム風船は加硫法が伝わらず製法技術が未熟なため輸入品と違い、色が黒くゴムの伸びも悪く浮揚ガスを入れても浮きにくい[30]ことから以前より「舶来品は上等」[4]といわれた。
- 1900年7月2日: ドイツとスイスの国境のボーデン湖で、ドイツのツェッペリン型硬式飛行船1号機が初飛行する。
20世紀
[編集]- 1901年: ドイツ人の科学者リヒャルト・アスマンがゴム製の気球に観測機材とパラシュートを付けて飛ばし、破裂点まで20000m以上まで上昇したことを確認[12]。
- 1901年11月12日: ブラジル人のアルベルト・サントス・デュモンが製作した飛行船6号機により、フランス・パリのエッフェル塔の周回飛行に成功する。
- 1902年: フランスの気象学者レオン・ティスラン・ド・ボールが探測気球による観測により成層圏を発見する[31]。
- 1904年2月8日 - 9月5日: 朝鮮半島や満州を主戦場に日露戦争が起こる。
- 1905年1月15日: 東京・吾妻橋のサッポロビール構内で旅順陥落記念で旅順攻囲に使用した軍用気球[32]の掲揚会が行われる。
- 1905年: 日露戦争の終結後の戦勝祝いにゴム風船が使われ玩具として一般に普及。大正期以降には俳句の春の季語として「ゴム風船」が登場するようになる。
- 1905年11月: 大阪市外の伊藤護謨風船工場が創立し、ドイツ製ゴム風船をもとにした国産のゴム風船が製造され始める[1][11]。日本国内でもゴム製品の加硫法(冷加硫法)が知られるようになり[33][34][35]、以降日本国内にゴム風船工場が乱立する。
- 1906年: アメリカ人のオーエンスレガー(George Oenslager)がゴム加工品の加熱による加硫時間を短縮させる加硫促進剤を発見し、ゴム産業の大量生産の基礎を確立。以後数多くの加硫促進剤・助剤が開発され、かつては加熱で4〜5時間かかる熱加硫の工程が薬品の添加により現在では数分〜数十分と短縮された[6]。
- 1907年: 日本における無地のゴム風船に文字や絵を彩色する名入りの方法が東京・渋谷の金子佐一郎(金子護謨風船工場)により発明される[4][36]。
- 1908年: オランダのヘイケ・カメルリング・オネスが液体ヘリウムを初めて製造。
- 1910年9月8日: 日本の山田猪三郎[37]により、気嚢が逆三角形の形状をした初の国産飛行船山田式飛行船が初飛行する。
- 1912年: 日本国内のゴム風船の生産量の急増により、初めてゴム風船が海外に輸出される[4]。
- 1912年: 中山太陽堂がアドバルーンを東京・日本橋に揚げる[38]。
- 1914年7月28日 - 1918年11月11日: ヨーロッパ地域が主戦場となった第一次世界大戦が起きる[39]。
- 1917年: 日本国産のゴム風船の輸出が50万グロスに達する一方で、かつては玩具の産地だったドイツは第一次世界大戦の戦場となった[4]。
- 1920年代: 濃縮ラテックスの製造やその運搬保存時の変質防止に関する製法技術がイギリス国内で相次いで開発される(ゴムラテックスの濃度を高める遠心分離法[40]や蒸発法[41]、原料ラテックスに加硫促進剤を添加(前加硫ラテックス)[42]や、クリームラテックス[43]など)[13]。
- 1920年: パラゴムノキのプランテーションによるゴム原料が全体のシェアの89%を占める[5]。
- 1920年: アメリカのリンデが不燃性浮揚ガスのヘリウムガスの国内の精製プラントを完成[44]。1920年代にヘレン・ワーニー(Helen Warny)という女性が設立した広告会社による5万個もの大規模な風船飛ばしなどのアトラクション[45]や、後に恒例化するメイシーズの巨大バルーンパレードの開催。そして自国飛行船のヘリウム化の呼び水となる。
- 1921年4月: 日本の高層気象台で測風経緯儀による測風気球(パイロットバルーン)観測が始まり、上層気流の風向・風速が観測される[46][47]。この観測で1924年12月2日に上空9000mで秒速72mの高層風を観測[48]し、のちにジェット気流と呼ばれる強風域を確認する。
- 1922年2月21日: イタリアから購入したアメリカ陸軍の半硬式飛行船ローマ号がバージニア州ラングレー空軍基地を離陸時に操縦不能に陥り、基地の端の高圧線に接触し爆発。以後アメリカの飛行船では浮揚ガスに水素を使わなくなる[8]。
- 1923年6月1日: 日本で圧縮瓦斯及液化瓦斯取締法が施行される。(現在の高圧ガス保安法のルーツ)[49]
- 1927年: 1924年に始まったアメリカ・メイシーズの感謝祭パレードに巨大バルーンが初めて登場。
- 1928年: アメリカ・テキサス州アマリロ付近に一大ヘリウム鉱脈を発見。[50]
- 1929年8月19日 - 8月23日: 飛行船ツェッペリン伯号の初の世界一周で日本の霞ヶ浦に寄港。日本国内に飛行船ブームが起きる。
- 1929年: フランスの科学者ビュロー(Robert Bureau)がアネロイド気圧計とバイメタル温度計により上空の観測結果を送信機を介し随時電波で送信するラジオゾンデを開発[12]。
- 1930年: パラゴムノキのプランテーションによる天然ゴム原料が主流となりゴム風船の大量生産に弾みがつく一方、野生ゴムの原料が市場から姿を消す[5]。
- 1931年: アメリカのニール・ティロットソン(Neil Tillotson)が従来の生ゴムではない天然ゴムラテックスを原料に、猫の耳をかたどり猫顔を印刷したゴム風船(cat balloon)を15グロス(約2000個)製造し、マサチューセッツ州ボストンの愛国者の日に販売。
- 1933年: フランスよりヨーヨのブームが到来。10銭(現在でいう1万円前後)と高価だったため、まもなく代用品としてゴム製水ヨーヨーが1銭で発売。
- 1934年: 日本でゴム風船の海外への輸出が激増[51]。
- 1935年: ゴム原料の濃縮ラテックスが日本に輸入され始める。[52]
- 1937年5月6日: ドイツの巨大飛行船ヒンデンブルク号がアメリカ・レイクハースト海軍航空基地で着陸直前に爆発炎上[53]。
- 1937年7月7日: 盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が開戦。のちの日本海軍による真珠湾攻撃により第二次世界大戦に発展する。
- 1938年: 日本国内で数多くの日用ゴム製品の製造が禁止される[54]。一方で日本軍の要請によりゴム製のコンドームが製造されたが、戦後の混乱の中で子どもの風船玩具として文房具店に50万個、玩具店に10万個が出回り問題となる[4][55]。
- 1939年: 日本でアドバルーン広告が禁止される。
- 1941年12月8日: 日本海軍がアメリカ自治領ハワイへの真珠湾攻撃により、第二次世界大戦に参戦する。また日本海軍はマレー半島北端にも同時に奇襲上陸してイギリス軍を追い込んだのち、日本はマレー半島の天然ゴム資源を確保する[56]。
- 1943年: 第二次世界大戦下の日本でゴム統制会が設置される[57]。
- 1944年: 日本から主にアメリカに向けて風船爆弾が飛ばされ、約1割がアメリカ本土に到達したとみられる。のちにアメリカはこの兵器を通して上空のジェット気流の存在を把握する。
- 1945年8月15日: 昭和天皇の意向により日本は全日本軍の無条件降伏を定めたポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終戦をむかえ、日本の主権が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理下に置かれる。
- 1949年: 日本のゴム統制会が解散。ゴム風船の製造が再開されブームとなる。
- 1949年: アドバルーン広告が再開される。
- 1952年4月28日: GHQの占領が終わり、日本の主権が回復する。
- 1952年: アメリカの物理学者のジェームズ・ヴァン・アレンらが小型高性能ロケットを高高度気球で引き上げてから発射するロックーンによる打ち上げを始める。
- 1952年: 日本で初めてのヘリウム液化機が東北大学金属材料研究所(当時の金属材料研究所低温室)に導入され、日本の極低温研究の先駆けとなった。
- 1953年1月28日: 銀座チョコレートショップ爆発火災 - 風船に充填する水素に何らかの火が引火し爆発。死者1名、重軽傷者78名。
- 1955年 - 1973年: 日本で戦後の高度経済成長が起きる。
- 1957年8月19日: アメリカのプロジェクト・マンハイの第2回実験でアメリカ空軍の医療士官デヴィッド・シモンズ(David Simons)がミネソタ州クロスビーから高高度気球で30942m(101516フィート)まで上昇。約32時間飛行を続け、翌日サウスダゴダ州フレデリックに着陸した。
- 1960年: アメリカ航空宇宙局で薄膜の金属がコーティングされたマイラーポリエステルフィルムでできた受動型通信衛星である巨大な風船衛星エコーが打上げられる。
- 1962年: 日本の産業ガス商社の巴商会がアメリカ最大のヘリウムメーカーであるエアコウ社よりヘリウムガスを輸入し販売開始。2年後には液体ヘリウムを関東地区で初めて販売し、全国需要の50%を占める。
- 1964年10月10日 - 10月24日: 東京都で東京オリンピック(第17回夏季オリンピック)を開催。1万個のゴム風船が飛ばされる。
- 1968年9月1日: 日本で戦後初めての民間の飛行船「キドカラー号」が飛行を始める[58]。
- 1969年9月27日: 日本の北海道でイカロス昇天グループと北海道大学探検部により熱気球のイカロス5号の有人飛行が成功。以後日本国内で熱気球がスカイスポーツとして普及する。
- 1970年3月14日 - 9月13日: アジア地区で初開催の国際博覧会「日本万国博覧会(大阪万博、EXPO'70)」が大阪府吹田市で開催され、600発の花火とともに3万個のゴム風船が飛ばされる。
- 1972年2月3日 - 2月13日: 北海道札幌市で札幌オリンピック(第11回冬季オリンピック)を開催。1万5千個のゴム風船が飛ばされる。
- 1981年3月20日 - 9月15日: 兵庫県神戸市で、神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)が開催。以後日本各地で地方博覧会が開催される。
- 1984年11月3日: 東京新宿副都心で企業イベントでギネスブックの記録更新目的[59]で38万4800個の風船飛ばしが行われる。
- 1985年: 広島東洋カープのジェット風船飛ばしによる応援を開始。のちに他球団の応援にも波及。
- 1986年9月27日: アメリカ・オハイオ州クリーブランドで企業によるギネスブックの記録更新目的で142万9643個の風船飛ばしが行われる。
- 1987年11月1日: 岡山県倉敷市の祭りのイベントで、風船飛ばし用の水素入りゴム風船が爆発[60]。
- 1988年: 日本国内でヘリウムガスに呼吸用酸素を配合した変声ガス玩具「ダックス・ボイス」が発売される。
- 1990年: 日本国内で民間の環境意識の高まりから風船飛ばしの反対運動が起きる。[61]
- 1991年: 風船飛ばしに配慮した紙などを原料とする環境風船が各社から発売。
- 1992年11月23日: 日本の鈴木嘉和が、琵琶湖湖畔から大量のヘリウム入り係留気球を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」に乗り太平洋横断に出発する。
- 1995年: 杉浦エミリーにより、日本初のバルーンアートスクールが開催される。
- 1998年2月7日: 長野県長野市で長野オリンピックを開催。1998個の生分解ポリオレフィン製のハト風船(環境風船)を飛ばす。
21世紀
[編集]- 2002年3月: ヘリウムガスを浮揚ガスに利用した玩具「ラジコン飛行船」(タカラ)が発売される。
- 2004年: 日本飛行船が半硬式飛行船ツェッペリンNTを購入。翌年日本国内で愛知万博の宣伝に使われる。
- 2007年10月25日: 茨城県内の高校の文化祭の準備中に生徒が風船用ヘリウムガスの入った袋を頭からかぶり酸欠事故が起きる。[62]
- 2008年4月20日: ブラジルのアデリール・アントニオ・デ・カルリ神父がブラジル南部の港町パラナグアから1000個のヘリウム入りゴム風船で飛び立つ[63]。
- 2009年: 世界的な新型インフルエンザの蔓延の影響により、日本でプロ野球の球場内でのジェット風船での応援が自粛される。(翌年再開される。)
- 2009年10月15日: アメリカ・コロラド州で子供がUFO気球に飛ばされたとするコロラド気球事件が起きる。(のちに自作自演の事件と発覚。)
風船の語彙の変遷
[編集]日本では「風船」の言葉の意味が時代とともに大きな変遷を遂げている。
- 1783年12月1日: ジャック・シャルルがロベール兄弟のとともに水素ガス気球による有人飛行に成功。
- 1784年以降 日本の蘭学者に乗用のガス気球の話題がオランダ語で紹介・翻訳され、のちに日本の蘭学者や国防論者により語彙が空船、気船などとともに風船として紹介される。
* Luchtbal(Luchtballon)・リユクトバル - Lucht(気)+ Ballon(球) * Luchtsloep・リユクトスロープ - Lucht(気)+ Sloep(小舟) * Luchtschip・リユクトキシツプ - Lucht(気) + Schip(帆船)
- 明治初期: 風船は乗用のガス気球を意味する軽気球の俗語とされる。ゴム風船は球凧・球紙鳶(たまだこ)や風船玉などといわれた。
- 1890年 :スペンサーの風船乗り興業で風船ブーム。風船グッズとして 紙製のパラシュート玩具が紙風船、丸い球状の紙風船は紙手鞠として販売された。
- 1922年1月21日: 日本海軍が航空機を飛行機・航空船・気球の3種類と制定。風船が乗用のガス気球の意味として使われなくなる。
- 1929年: 巖谷小波のゴム風船を沢山付けた子供が冒険する創作童話「風船玉旅行」が流行して以降、風船は風船玉とともに主に玩具のゴム風船をさす言葉となる。
- 1970年代: 日本で熱気球ブームが起き、熱気球が俗に風船と飛ばれたり、バルーンパイロットが風船野郎と呼ばれるようになる。
脚注
[編集]- ^ モンゴルフィエ兄弟の兄ジョセフが当時のフランス軍当局に、「イギリスが占領したジブラルタルの要塞に気球で空から軍隊を送り込むことができる」とする飛行部隊のアイデアの手紙を書いたという。(アメリカ独立戦争におけるフランスも参照。)
- ^ 硫酸と鉄片の反応により、酸化第二鉄と硫黄と水素を発生するというもの。初期のガス気球では水素ガスを酒樽の中に鉄くずや亜鉛くずとともに硫酸を入れて化学反応させて得られたが、一般に硫酸などの酸類と金属の化学反応では、酸や鋼材に含まれる不純物の関係で生成される水素の純度が低く、破れた気球から吹き出た水素ガスには硫黄臭の悪臭が伴った。
- ^ 気球の内容積が596立方メートル、200kgの浮力があったとされる。高度は6000フィート(約1800m)に達し、1マイル半ほど離れたところに落下したといわれる。
- ^ 日本ではこの気球の初飛行を記念し、6月5日を熱気球記念日と制定している。
- ^ 首都パリにおける最初の気球飛翔。15マイル(約24km)ほど離れたジュノスの畑に落下。気球の硫黄の悪臭に村人が走り回り、2人の修道士が「怪獣の皮膚の一部である」と言い切ったことから、怒った村人により破れた気球に石を投げつけ熊手を突き刺し、聖水で清めた後で馬の尾にくくり引きずり回したといわれる。しかし気球は破かれたものの、破れた跡の中に上昇による膨張により破れた亀裂を見つけることができた。
- ^ 上空1500フィート(450m)の高さまで上がり、2マイル(約3km)離れたヴォークレソンの森に落下した。
- ^ 直径46フィート(約13.8m)、高さ66フィート(約20m)で気球の周りに高さ3.5フィート(約1m)の手すりの付いた回廊を設け、気球の底にわらなどの燃焼用の鍋が付いていた。
- ^ ロジェは有人飛行の約2ヶ月半前にジャック・シャルルの気球実験の着地地点に馬に乗って駆けつけ、現地にいたモンゴルフィエ兄弟の兄ジョセフと交友を持ち、のちに兄弟による熱気球の有人飛行の話が持ち上がったときに気球に搭乗することを申し出た。しかしルイ16世が有能な人材のロジェを危険にさらすわけにいかないと死刑囚2人を気球に搭乗させることを提案。ロジェはルイ16世の王妃マリー・アントワネットと親しいポリニャク夫人を通して、気球の搭乗許可を与えるよう嘆願。ようやく世界初の有人気球飛行の搭乗者として名乗りを上げることができた。しかし1785年6月15日には水素気球と熱気球を併用したロジェ気球によりイギリス海峡横断に挑戦したが、上空で気球が爆発墜落し、気球製作者のジュール・ローマンとともに気球史上最初の死亡事故の犠牲者となった。
- ^ 気球による有人飛行の成功を記念し、1798年にフランスの天文学者のジェローム・ラランドが星座としてけいききゅう座を名付けた。(現在、その星座の領域にはけんびきょう座が割り当てられている。)
- ^ 気球の直径は27フィート(8.1m)であった。
- ^ 飛翔の見物には当時のパリの人口の約半分の約40万人が集まったといわれる。シャルルはこの時モンゴルフィエ兄弟の兄ジョセフを招待し、気球のロープを切る名誉を与えたという。シャルルは1回目の所要時間2時間の飛行で27マイル(約43km)離れたネールという村で着地後、その日のうちに単独飛行を決行し、1日に2度日没を見た最初の人といわれた。しかし乗員が1人になり荷重の減った気球は急速に高度9000フィート(約2700m)まで上昇し、シャルルは約25分間の飛行中は急激な気圧の変化による耳の痛みや寒さの中で単独で操縦を行ったといわれており、この日以来二度と気球の冒険を行うことはなかったという。
- ^ バレリーナ飛翔や馬乗り飛翔、パラシュート降下などのアクロバット飛行や上空のゴンドラで花火を付ける夜間飛行などもあった。しかし一方で女流気球飛行士ソフィー・ブランシャールの事故のように気球のショーや冒険による犠牲者も少なくはなかった。
- ^ ちまたは気球の話題で持ちきりとなり、当時制作された装飾品や服飾品、漫画に気球のデザインが多く使われた。
- ^ 「気球旅行記」宇田川玄随(写),オランダ語表記,(早稲田大学図書館・古典籍総合データベースで閲覧可能)
- ^ 気球の英仏海峡横断飛行は、空からの攻撃に対し国境や海峡が防衛上の障壁にならないことから軍事研究家に驚きを与え、気球の軍事利用の意識を高めるきっかけとなった。フランスで1793年に結成された気球部隊は「気球隊」として世界最初の空軍のはしりとなった。
- ^ 「遠西医方名物考 補遺8」宇田川玄真,宇田川玄随,(早稲田大学図書館・古典籍総合データベースで閲覧可能)
- ^ 「護謨工業ニ関スル調査」農商務省工務局編,農商務省工務局編,1921,P49. NDLJP:959766
- ^ 英国特許467(1853年)
- ^ 北軍気球司令部や気球母艦の項も参照。
- ^ 「開成新聞此花新書 第一号」(1868年)にて横浜で支那人がゴム風船を売り歩く記事。
- ^ 「内外新報 第十七号」(1868年)にて、ある人の話として大阪江戸堀の櫂屋町(現在の大阪市西区江戸堀2丁目付近)で当時英人のハルトリーが舶来品のかたわらゴム風船を売り歩いていたとする記事。
- ^ パリ市内からの気球郵便は計66回飛ばされ102人がパリから脱出し、400羽の鳩と約250万通の郵便を運んだとされる。またパリ市内への郵便には多数の手紙の内容をマイクロ写真化したものを、帰巣本能を持つ複数の鳩の足につけてパリ市内に向けて飛ばしたという。
- ^ 「明治事物起原」石井研堂,橋南堂,1908,P295-297(NDLJP:898142/173 173-174コマ) NDLJP:898142
- ^ 明治政府が気球を軍事偵察に用いようと工部大学校と陸軍士官学校にそれぞれ気球の製作を依頼する。
- ^ 長さ9間、幅5間、周囲17間、奉書紬120反をミシン縫いしてゴム塗りした2個の軽気球が製作され、一つは水素ガス、もう一つは石炭ガスを入れて浮揚したが、石炭ガス気球は爆発し、水素ガス気球は風のため係留索が切れて飛び去った。(逸話として東南に一里半(約4Km)ほど離れた堀江という海村に落ち、物を知らない村人が「風の神が落とした袋」や「ラッキョウの化け物」と大騒ぎとなり、みんな気球を櫂で乱打すると気球が破れて臭気が漂い、臭いをかいだ人の中には2,3日具合を悪くした人もいたという。)
- ^ 甲斐絹をベースにゴムとこんにゃくでんぷんを塗り乾燥させ、グリセリンを塗り表に網をかけた容積300立方メートル、高さ8.2mの球形気球。
- ^ 現在はソフトテニスボール「アカエム」で知られる昭和ホールディングス株式会社として存続。
- ^ 10月12日に横浜公園、11月12日に二重橋で天覧、11月24日には上野公園・博物館内から興業が行われた。
- ^ 5代目尾上菊五郎の歌舞伎の演目『風船乗評判高閣』など。
- ^ 「今昔物語 : 護謨の巻(一?四)」神戸新聞,1923年8月30日〜9月2日(神戸大学電子図書館・デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」で閲覧可能)
- ^ 高度約12Km付近で気温減率(登山などで100m登る毎に気温が約0.65℃ずつ下がる。)が成立しなくなり、気温が上昇しはじめる大気の層の違いを発見。その大気の層を成層圏、それより下の地表までの層を対流圏と名付ける。
- ^ 高さ12間、直径10間のアメリカ・サジューム式。会費15銭、軍人は無料であった。
- ^ 「ゴム製法研究」大崎自彊,(大阪)盛文館,1912年. NDLJP:847554
- ^ 「薄層ゴム製造法」ゴム新報社編,ゴム新報社,1913,一部欠け頁あり. NDLJP:951670
- ^ 「大日本護謨同業名鑑」ゴム新報社編,ゴム新報社,1913,ムの部1-18頁 NDLJP:950441
- ^ 「工業帝国 勃興雄飛」後藤喜間太,石英堂書房,1917,「風船玉の洋行(金子護謨風船工場所見)」P138-142 NDLJP:[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955354 955354
- ^ 山田猪三郎が1894年に東京市大崎に創業したのが、のちに気象観測用ゴム気球メーカーとなる気球製作所である。
- ^ 翌年クラブ化粧品(中山太陽堂)のほかレート化粧品、仁丹などもアドバルーン広告を始める。
- ^ ドイツは軍事目的で飛行船を多く用い空襲を行い、イギリスやフランス市民を不安に陥れた。しかし敗戦したドイツは一部の飛行船を戦勝国に引き渡されることになる。
- ^ Utermarkが1923年に取得した英国特許219,635など。ラテックス中の水分や成分(漿液)が除去され変質されやすくなるのでアンモニアが添加される。
- ^ E.A.Hauserにより1924年頃に開発されたもので、保護コロイド(石鹸など)を加え蒸発させ濃度(70%かそれ以上)を高めた製品(Revertex)などがある。
- ^ Schidrowitzにより開発(英国特許193,451(1923年))され、ヴァルテックスという製品で販売。コロイド状硫黄や加硫促進剤があらかじめ添加されており、製品の製造段階で加硫工程が不要などのメリットがある
- ^ 特にI.Traubeにより発達(英国特許226,440(1924年))アイスランドゴケやトラガカントゴムなどの親水コロイドをラテックスに添加し加熱すると液面にゴム粒子がクリーム状に凝縮するもので、アンモニアのほか保存剤も入れられる。
- ^ 「米国に於けるヘリウム瓦斯の製造 : 進歩せる設備と盛んなる現況」東京朝日新聞,1923年3月5日(神戸大学電子図書館・デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」で閲覧可能)
- ^ 1888ARTICLES.COM 「Balloons make the world go round」(Author: Peter Airdee)」
- ^ 「彙報(いほう) 第1号」高層気象台編,高層気象台,1923,P14-18(11-13コマ) NDLJP:984946
- ^ 「測風気球観測常用表」中央気象台編,中央気象台,1922. NDLJP:984931
- ^ 『(口絵)高層気象台の歴史的高層風図』 「高層気象台彙報 第65号 2005年3月」,2005 (気象庁高層気象台のホームページで閲覧可能)
- ^ 1918年9月12日の午前11時頃、当時の東京市芝区白金台町で、荷馬車で運搬していたアンモニア入り圧搾鉄鑵のうち1本が破裂。破裂に驚いた馬が積んでいた4,5本のアンモニア鉄鑵を地上に振り落とし疾走。破裂事故を目撃した小学生数人が4,5本の鉄鑵に近づいたところそれらが一度に爆発し2人即死し重軽傷者も出した。冷所に保管していたアンモニア鉄鑵が残暑の炎天下にさらされガスが膨張し爆発に至ったとみられ、この事故が本法律の制定のきっかけになったといわれる。
- ^ 「自然噴出のヘリウム瓦斯坑 : 米国で発見」中外商業新報,1928年12月26日(神戸大学電子図書館・デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」で閲覧可能)
- ^ 「パァン・パァン鬱憤晴らしは日本風船に限る : 海外への輸出激増百五十万円を突破」大阪朝日新聞,1934年6月23日(神戸大学電子図書館・デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」で閲覧可能)
- ^ ゴム風船などの薄層製品が熱加硫で製造できるようになり、引火性の溶剤の揮発油や冷加硫で使用する有害な塩化硫黄を使用する必要が無く、製造者には安全性を高める大きな福音となった。
- ^ この事故以前にも飛行船の事故は数多く発生し、また飛行船による事故の犠牲者は1933年に73名の犠牲者を出したアメリカ陸軍のヘリウム飛行船「アクロン号」の方が大きい(ヒンデンブルク号は36名)が、民間旅客機史上最初の事故であることや、爆発の瞬間が記録映像や着陸の様子を伝えるラジオ中継の音声として残されていることから、水素ガスの引火爆発の危険性を示す著名な事例として多く語り継がれている。
- ^ 「ゴムの民需禁止 : きょう公布、直に実施」大阪朝日新聞,1938年7月9日(神戸大学電子図書館・デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」で閲覧可能)
- ^ 警察は玩具店の分は一部を押収できたものの、文房具店向けの50万個は売りさばかれた後であった。のちに過ちを悔いた文房具商が戦災遺児のために1万円を商工省を通して寄付したといわれる(1946年8月2日朝9時から当時の厚生省で行われた第2回玩具協議会の中の商工省の担当者による「不衛生なゴム製品」の説明で。(朝日新聞1946年8月4日2面))。
- ^ これにより天然ゴムの供給が遮断され困窮したアメリカは、合成ゴムの研究・大量生産に乗り出すことになる。
- ^ 「ゴム統制会設立命令 : 会長に林善次氏内定」日本産業経済新聞,1943年1月7日(神戸大学電子図書館・デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」で閲覧可能)
- ^ 飛行船「キドカラー号」は約半年後の1969年4月4日の夜に徳島県の津田海岸埋め立て地に係留されていたが、暴風により船体が暴れたことから、クルーにより非常用ガス放出孔(リップパネル)が開かれ飛行船の役目を終えた。
- ^ アメリカで作られた36万3729個の記録更新のために行われた。
- ^ 配布用風船1000個にはヘリウムガスが使われていたが、風船飛ばし用の風船3500個に水素を使用。イベント用テントの中に大量の水素入りゴム風船があり、関係者のたばこの火が漏れていた水素に引火したことによる事故とされ、テント3張りを焼き17人が重軽傷を負った。
- ^ 当時の日本ゴム風船商工会の試算で、空に飛ばされるゴム風船は、ゴム風船の年間消費量約2億5千万個のうちの約250万個程度といわれている。(朝日新聞,1991/04/05朝刊P11)
- ^ 消費者に変声ガスと混用されることが多く、酸欠の恐れのある風船注入用ヘリウムガスの安全性を考えるきっかけとなった。
- ^ 風船による飛行時間の世界記録(約19時間)の更新目的のこの冒険により彼は絶命し、この行為に対しダーウィン・アワードの2008年の大賞を受賞する。
参考文献
[編集]- ^ 『日本人形玩具辞典』斎藤良輔、東京堂出版、1968年、「風船」の項 P389-391
- ^ 『日本のおもちゃ遊び』斎藤良輔、朝日新聞社、1972年
- ^ 『気球の歴史』レナード・コットレル著、西山浅次郎訳、大陸書房、1977年
- ^ 『ゴム用添加剤活用技術』渡邊隆、平田靖、工業調査会、2000年、ISBN 4-7693-4144-X
- ^ 『増訂明治事物起源』石井研堂、春陽堂、1926年
- ^ 『飛行船もういちど飛びなさい』ジョージフ・フード著、高齋正訳、白銀書房、1975年、P84
- ^ 『世界の博物館11 ミュンヘン科学博物館』、高橋雄造、講談社、1978年、ISBN 4-06-142511-0
- ^ 『にっぽん飛行機物語 上』、内藤一郎、雄山閣、1972年
- ^ 『舶来事物起源辞典』富田仁、名著普及会、1987年
- ^ 『科学大博物館 ―装置・器具の歴史事典―』橋本毅彦・梶雅範・廣野喜幸 監訳、朝倉書店、2005年、ISBN 978-4-254-10186-7
- ^ 『ゴムの化学』フロインドリッヒ著、桂井富之助訳、白水社、1942年
- ^ 『空飛ぶ機械に賭けた男たち』アレン・アンドルーズ著、河野健一訳、草思社、1979年