魚住折蘆
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魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年1月27日[1] - 1910年12月9日[1])は、明治時代の日本の文芸評論家。
本名は影雄(かげお)[2]。
来歴・人物
[編集]兵庫県加古郡母里村(現・稲美町母里)出身[1][2]。兵庫県姫路尋常中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)入学後、内村鑑三の『東京独立雑誌』に影響を受ける[1]。1901年(明治34年)受洗[1]。1903年(明治36年)5月、友人の藤村操が日光華厳滝で投身自殺し、衝撃を受ける[1]。同年9月、第一高等学校に入学[1]。翌年『一高校友会雑誌』に「自殺論」を寄稿し[3]、今日の人間にとって、国是国策の君でも家でもなく、自我こそが問題なのだと論じて話題になる。
1906年(明治39年)9月、東京帝国大学文科大学独文科に入学するが[1]、同年10月哲学科に転科した[1]。大学では、ラファエル・フォン・ケーベルに師事、また安倍能成ら夏目漱石の門下生や宮崎八百吉、綱島梁川、西田天香のような宗教家たちとも交流した。大学卒業後、大学院に進学する[1]。
1910年(明治43年)6月3日 - 4日の『東京朝日新聞』に自然主義文学の欠陥を指摘する文芸評論「自然主義は窮せしや」を発表した[1]。同年8月発表の「自己主張の思想としての自然主義」[1]は、石川啄木に「時代閉塞の現状」を書かせるきっかけとなった[3]。チフスと尿毒症のため[1]、27歳で夭折した。没後『折蘆遺稿』 (1914) が出版された[3]。
著作
[編集]- 「自然主義は窮せしや」1910年
- 「自己主張の思想としての自然主義」1910年
- 安倍能成編『折蘆遺稿』岩波書店 1914年
- 『魚住折廬書簡集』岩波書店 1977年
- 『現代日本文学大系40巻 魚住折蘆,安倍能成,阿部次郎,和辻哲郎,生田長江,倉田百三,長谷川如是閑』筑摩書房 1973年
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m “魚住 折蘆 | 兵庫ゆかりの作家”. ネットミュージアム兵庫文学館 : 兵庫県立美術館. 2022年8月4日閲覧。
- ^ a b 「魚住 折蘆」『20世紀日本人名事典』 。コトバンクより2022年10月1日閲覧。
- ^ a b c “魚住折蘆|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2022年8月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 同志社大学人文科学研究所編『「新人」「新女界」の研究―20世紀初頭キリスト教ジャーナリズム』人文書院、1999年 - 魚住の求道的な生涯について詳しい