屋島古戦場 写真/show999/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

「思いやりにより、人を導くべき」

 元暦2年(1185)2月16日、源義経は屋島にいる平家を叩くため、摂津国渡辺を船出します。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)によると、暴風雨の中の船出だったようです。翌日には、阿波国勝浦に無事に着岸した義経軍(150余騎)。同国の武士・近藤親家を召し寄せ、彼を道案内として、屋島に向かいます。途中、桂浦においては、平家方の桜庭良遠を攻めたとされます。 

 義経軍の攻撃を受けて、良遠は「城」から逃亡したとのこと。阿波から讃岐に入った義経は、同月18日に屋島の平家軍を攻撃します。攻撃の前に、義経軍は高松の民家などを焼き払ったようです(『吾妻鏡』)。

 突然の義経軍の襲来に驚いた平家方は、殆ど戦わないまま、安徳天皇を伴い、海上に逃走しました。義経たちは、それを追い、波打ち際に馳せ向かいます。

 義経軍、平家軍、共に「矢石」の応酬があったようです。そして、平家方の陣営を燃やす義経軍。黒煙は天にたなびき、陽の光を遮るほどでした。平家方の武士にも勇気ある者がいて、船から降りて、義経軍に対抗するものもいました。越中二郎盛継、上総五郎忠光らがそうです。

 この時の合戦により、義経の家人・佐藤継信は討死してしまいます。義経は家臣の死を大いに悲しみ、僧侶に依頼して、継信を埋葬させたそうです。また、自分が大事にしていた名馬(行幸の供奉の際に、後白河院より賜る)を布施として、その僧侶に与えたといいます。亡き家臣の弔いのためでした。この話を知った人々は、それを「美談」と認識したようです。