
(吉田さらさ・ライター)
大きな八幡宮があることに由来する地名
滋賀県は古くは都が置かれたこともあり、奈良や京都と緊密な関係にあった地域である。そのためさまざまな時代の史跡や訪れるべき寺社が数多く、琵琶湖周辺の美しい風景もあいまって、旅の目的地として人気が高い。わたしも幾度となく訪れているが、中でももっとも多種多様な見どころを持つのは近江八幡市であろう。
観光のメインは豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)によって運河として造られた八幡堀。周辺には近江商人が活躍した時代を思わせる古い街並みも残り、NHKの朝ドラや時代劇のロケにもしばしば使われる。神父で建築家でもあったウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した教会などの洋風建築も、歴史的景観の中にしっくり溶け込んでいる。そんな魅力的な街の中心となるのが今回ご紹介する日牟禮(ひむれ)八幡宮だ。

そもそも近江八幡という地名は、大きな八幡宮があることに由来する。社伝によれば、131年に第十三代成務天皇が即位した際、武内宿禰に命じてこの地に地主神である大嶋大神を祀ったのが始まりとされる。275年に応神天皇が近江に行幸し、現在のこの神社付近に御座所を設けて休憩した。その後この仮屋跡では日輪(太陽)の形が二つ現れるという奇跡が起きたため、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けたという。691年には、藤原不比等が参拝して次のような歌を詠んだ。
「天降りの 神の誕生(みあれ)の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」
この和歌にちなみ、社の名称を「比牟礼(禮)社」と改めたとも伝わる。
時は流れて平安時代、一条天皇の勅願によって九州の宇佐八幡(八幡信仰の本拠地)から分霊を受け、現在の社の背後にある八幡山の上に社を建立した。これを「上の八幡宮」といい、その後、山麓に遥拝社を建立して「下の社」と名付けた。ちなみに一条天皇は、昨年(2024年)のNHK大河ドラマ「光る君へ」で人気を博した中宮定子、中宮彰子の夫である。
1585年、豊臣秀次が八幡山に城を築城するため、上の八幡宮を下の社に合祀した。秀次は別の場所に上の八幡宮を遷すつもりであったが、秀吉によって自害させられたためこの計画は頓挫した。その結果、下の社のみの形となり、それが現在の日牟禮八幡宮である。秀次が建てた八幡城も廃城となったが、八幡堀周辺は商人の町として大いに発展した。かくして日牟禮八幡宮は、近江商人、そして徳川家康などの武将たちからも広く崇敬されるようになった。