今、「資本主義が人類最高の発明である」という本を読んでいる。
主なこの本の主張
まだ1/3ほど読んだところではあるが、概ねこんなことを言おうとしている。
企業家が高い付加価値のビジネスモデルを作ることで社会全体によりいい暮らしがもたらされる。
その見返りとして企業家は大金持ちになり、「格差」として現れるというのはしょうがないというのは最近僕も思うことだ。 企業家を大事にしないと結果全員がより貧しくなるだろう、ということをブログにできないか、という下書きもあった。
生まれだけで人生が決まっていた絶対王政の時代と比較したらとても良い時代だと思う。 ビル・ゲイツもイーロン・マスクも王族の生まれだから今の地位があるわけじゃないし、誰にでもこれから世界一の富豪になるチャンスはある。
というわけでこの本のメインの主張については違和感は少ない。
(ただ、とはいえ安全保障という観点から自国産業の優遇など必要なことはあると思う。海路の地政学リスクや日本の食糧自給率の低さと円相場のボラティリティ増大を考えると。。。)
グローバル資本
さっき読み始めた章のタイトルが「第5章 独占企業は悪なのか」。
スターバックスがシェアを高めることはマクロで見れば寡占化の進行だが、ローカルで見れば今までは地元のカフェしかなかったところに 地元のカフェとスターバックスという選択ができる状況になる、むしろ選択肢の増加だ、良いことだ、という主張が出てくる。
人々が経済学のモデルのように合理的思考をするのなら確かにそうなのだが、実際に生きる人間の非合理さを考えるとこの主張については、引っかかりがある。
ありがちなよくいうグローバル資本が人々を搾取している、みたいな話ではないのだが。
↓何が言いたいのかよくわからない記事だが、こういうやつ。
ただ、SNSとグローバル企業の組み合わせがよからぬ行動パターンを生み出しているのではないかということを思っている。
世界で愛されているものを買う方が偉いのか?
海ほたるに行くと、スターバックスとIDEBOK Sweets Cafe(以下「いでぼく」)という2つのカフェが並んでいる。
自分の感覚では、どこに行ってもあるスターバックスよりも海ほたるにしかない「いでぼく」のほうが、ならでは感があるので行きたくなるし、僕はいつも「いでぼく」の方にいく。※ でもいつ行ってもスターバックスは大行列で、「いでぼく」の方は空いている。
いつもの味がいい、といった他の要素ももちろんあるとは思うのだが、これって割と
世界中で愛されているスターバックス=イケてる、日本ローカルだし聞いたことない「いでぼく」=ダサい
という意識に動かされていないだろうか。
より悪い事例にスマホの選択がある。。
僕も今でこそiPhoneを使ってしまっているが、iPhoneかAndroidかの選択って別に個人個人が求めるものの違いで選べばいいじゃんと思う。 しかし、なぜかただAndroidというだけでダサいという風潮がある。
日本ではAndroidのスタートダッシュが酷かった(日本メーカーのAndroidスマホが軒並みダメだった)記憶もあるのではと思うのだが、Galaxyという素晴らしいブランドを作れたお隣の国でもそうらしい。
※でも自分のこの「ならでは」を求めすぎる性格のせいで損をすることも多い。 普段は滅多にラーメンを食べないが、せっかく札幌に来たから夕食に「味噌ラーメン」を食べようと思い立ったとする。
どうせなら本当に札幌にしかないところを選ぼうと、「このお店は東京にも出店しているらしいからやめよう」「北海道ラーメンと書いてあるけど、札幌じゃなくて旭川のお店だからやめよう」 と悩んで探し回っているうちにどのラーメン屋がしまる時間になってしまい結局さらにどこにでもあるコンビニ弁当になってしまう、みたいなことが多々ある。
「権威主義的消費」
SNSにより他の人が何を買っているのか・何を使っているのか・何をしているのかが見えやすくなった。 「⚪︎⚪︎ おすすめ」で検索すればどこの馬の骨かもわからない「インフルエンサー」「ライター」がいう正解情報が手に入る。
個人として「正解」の選択肢を取ろうとするだけでなく、「不正解」を選んでいる人を攻撃までするような人が増えている。 そしてこの「正解」とされるものは、グローバル資本・大企業の製品が入る傾向にある。
といったことが最近感じられることだ。
「権威主義的消費」とでも言えるだろうか。
先進国で増える排外・反移民運動だったり、ネトウヨ・MAGAのような「権威主義的パーソナリティ」に動かされる行動パターンが、日常の消費行動にも現れているような気がする。
権威主義的マーケティング
現代日本の成功モデルにタワーマンションに住むことが挙げられる。 (さっき何が言いたいのかわからない記事、として紹介した森永卓郎の記事にもそうある。)
このタワーマンション人気は「権威主義的消費」で説明できるのではないかと思っている。
日本でタワーマンションビジネスがなぜ成功したのか。 それはわかりやすく「何階なのか」でステータスを指標化できたからではないか。
一戸建て住宅も、なんとなく豪邸・しょぼい家というのはあるが、人によって平家が良かったり3階だてで高い屋上があるのが良かったり、2つの家を比べたときに「誰にとってもこっちの方が上」というのはない。 でもタワーマンションだったら、少なくとも同じマンション内では階が上なら必ず上ということになっている。
そういう指標を与えてくれれば、ステータスを求めようとすればとりあえず階数が大きい部屋を買えば良いということになる。 収入が上がったら同じマンションの中で、より上階に引っ越す人すらいるらしい。 そして低層階に住む人より上にたったと満足する。
わかりやすいレールに沿って「成功」をしていけばいいのだから、わかりやすい人生である。
突然の飛躍
共通しているのは、自分で考えずに自分の周りの価値観で「正解」「成功」を選んでいくこと。 ここから思い出されるのは「エルサレムのアイヒマン」。
ホロコーストの推進者であったアドルフ・アイヒマンは別にユダヤ人を根絶したいという強い思いに突き動かされていたわけではなく、「数字で結果を残す」ことで組織内で褒められ昇進できる、というサラリーマン的な動機が行動の原動力になっていた、とハンナ・アーレントは考える。
Android使いを馬鹿にしたり同じマンションの下層階住民にでかい態度をとったりといった小さな悪と、ホロコーストの推進といった巨大な悪も、同じ行動原理に基づいているのではないか。 と考えると、権威主義的消費が目立つようように感じるということは、何か不吉なことが起きやすい社会に向かいつつあるのかもしれない。