Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
ラベル Hard Rock・Heavy Metal の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Hard Rock・Heavy Metal の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年1月6日月曜日

マルコム・ヤング (元 AC/DC)



1月6日は、スコットランド グラスゴー生まれ、オーストラリア シドニー育ちのギタリストの、マルコム・ヤング(Malcolm Young)の誕生日です。ハードロックバンド「AC/DC」のリズムギタリストとして長年にわたり「AC/DC」の土台を支え続けてきた。2017年11月18日に64歳で死去した。

マルコム・ミッチェル・ヤング(Malcolm Mitchell Young, 1953年1月6日 - 2017年11月18日)は、スコットランド グラスゴー生まれ、オーストラリア シドニー育ちのギタリスト。AC/DCのリズムギタリストとして知られている。同バンドのアンガス・ヤングは弟。デビュー当時から、グレッチのギターを愛用している。

マルコムとアンガスは、1973年11月にAC/DCを結成した。当時マルコムは20歳、アンガスは18歳であった。1974年に、彼らは初代ヴォーカリストのデイヴ・エヴァンスと共に世界ツアーを行う。

1976年に、AC/DCの活動拠点をイギリスに移し、世界ツアーおよびアルバム制作の過密なスケジュールをこなし始めた。しかし1980年、ヴォーカリストのボン・スコットが死亡、彼らは後継のヴォーカリストとしてブライアン・ジョンソンを迎える。ブライアンを加えて制作されたアルバム『バック・イン・ブラック』は世界中で爆発的なヒットとなった。

マルコムはアルコール依存症のため、1988年のツアーには不参加であった。しかしながらこの事実は隠され、公式には息子の病気のためツアーに参加しなかったとされた(息子は実際に病気であった)。マルコムはその後アルコール依存症を克服し、バンドに復帰した。マルコムの不在時、彼の甥であるスティーヴィーが後任としてバンドに参加した。

2014年4月、AC/DCはマルコムが休養すると告知。後に、今後バンドへ復帰することはないと発表した。ほどなくしてマルコムが認知症を患っていると報道され、家族もそれを認めた。

2017年11月18日に64歳で死去。次兄のジョージ・ヤングが亡くなった一か月後であった。

引用元:マルコム・ヤング - Wikipedia














AC/DC - Wikipedia



2024年12月23日月曜日

グラハム・ボネット



12月23日は、イングランド出身のロックシンガーである、グラハム・ボネット(Graham Bonnet)の誕生日です。1968年に「ザ・マーブルス」でデビュー、1979年に「レインボー」に加入、1982年に「マイケル・シェンカー・グループ」1983年「アルカトラス」1988年「インペリテリ」と様々なバンドで唄うこととなる。現在もソロやバンドでその熱い歌唱を聴かせてくれる。

グラハム・ボネット(Graham Bonnet, 1947年12月23日 - )は、イングランド生まれでアメリカ合衆国・ロサンゼルス在住のロックシンガー。レインボーやアルカトラスのヴォーカリストとして有名。声域は4オクターブあると言われている。

革ジャンやロングヘアに代表されるハードロックファッションを嫌う。アルカトラスのプロモーションで来日した際、ベストヒットUSAに出演して「(レインボーでは)ヘアスタイルのことでリッチー(・ブラックモア)とよく喧嘩をした」と発言し、小林克也に「リッチーからギターで殴られたのは本当?」と問われて「髪の毛を五分刈りにしてきたからね」と答えた。レインボー時代について「髪を伸ばしてハードロックファッションをするようリッチーに言われたが、自分に求められたのは声であり、ハードロックファッションやヘアスタイルではないから」「リッチーは声とスタイルが合っていないと思っていたのではないか」と語った。

しかし、これまでのキャリアで一番の思い出がレインボー時代と語っていた事もあった。

インタビューではその時の気持ちを率直に話してしまう。

右利きだが腕時計は右腕につけている。ステージに立つときも腕時計をつけたままで歌うことがある。

10代の頃に肉屋でバイトをしていた際、動物が屠殺されるのを見て嫌悪感をもよおしたのが原因でベジタリアンとなった。肉類は一切口にせず、人工皮革以外の革製品も身につけない。

常にコンバースのスニーカーを履いている。ステージでスーツを着る際も、靴はコンバースである。レインボー時代は人工皮革製のキューバン・ヒール・ブーツを履く事もあった。

歌詞を覚えるのが苦手でレインボー時代からステージに歌詞カードを置くことが多い。これは長年のアルコール依存症で脳が悪影響を受けて記憶力に問題があるため、と述べている。アルカトラスの「Too Young To Die, Too Drunk To Live」はアルコールとドラッグについて綴った歌詞であり、「Will You Be Home Tonight」は米国で飲酒運転撲滅キャンペーンにも使われた。また、インペリテリの『Stand In Line』に収録されている「Secret Lover」の歌詞はアルコールのことを比喩的に綴った。

2000年、ANTHEMの『HEAVY METAL ANTHEM』ツアー初日の大阪公演では張り切り過ぎてステージから転落している。

2006年のTaz Taylor Bandの公演で、2004年からは断酒していると告白。アルコール依存症は完治したとも述べている。

2007年10月23日のマリブ火災では自宅の裏庭にまで火が押し寄せ、隣人と消火作業を行っている。

2008年離婚。現在は独身である。

引用元:グラハム・ボネット - Wikipedia












ザ・マーブルス トレヴァー・ゴードンとグラハム・ボネット(右)








グラハム・ボネットと西城秀樹 1981年にソロで出した「孤独のナイト・ゲームス」を1983年に西城秀樹が「ナイト・ゲーム」としてカバーしている。



2024年9月6日金曜日

スコット・トラヴィス (ジューダス・プリースト)



9月6日は、アメリカ出身のドラマー、スコット・トラヴィス(Scott Travis)の誕生日です。主に「ジューダス・プリースト」や「レーサーX」などのドラマーとしてよく知られている。

スコット・トラヴィス(Scott Travis、1961年9月6日 - )は、アメリカ合衆国バージニア州ノーフォーク出身のドラマー。アメリカ合衆国のヘヴィメタルバンド、レーサーXと、イギリスのヘヴィメタル・バンド、ジューダス・プリーストとの兼任で有名である。

1980年代前半は「Hampton Roads」と呼ばれる地元の地域で有名なドラマーだったが、その後カリフォルニア州へ活動の場を移し、幾つかのバンドを渡り歩き、レーサーXに加入、一躍有名になる。

1990年に、念願のジューダス・プリーストに加入。それまでドラマーの入れ替わりが多かったバンドだったが、ようやく現在まで落ち着いている。また、ジューダス・プリーストのヴォーカルであるロブ・ハルフォード自身のバンド「Fight」でもドラムを叩いており、ロブからの信頼も厚い。ちなみに、ロブが1993年にジューダス・プリーストから脱退した際に、アメリカからのティム・オーウェンズの加入にもアメリカ人同士で携わった。1999年にレーサーXが再結成した際にも、ジューダス・プリーストと掛け持ちで参加。

2023年にはリッチー・フォークナー(ギター、ジューダス・プリースト)、ロニー・ロメロ(ボーカル、マイケル・シェンカー・グループ / レインボー)、レックス・ブラウン(ベース、パンテラ)と「エレガント・ウェポンズ (Elegant Weapons)」を結成し、アルバム『Horns for a Halo』を発表した。

また、右利きでも左利きでもドラムを叩ける、両利きのドラマーである。

身長は6フィート6インチ(約198cm)あり、ジューダス・プリーストのメンバーの中でも飛び抜けて大きい。

引用元:スコット・トラヴィス - Wikipedia












ジューダス・プリースト - Wikipedia



2024年8月19日月曜日

ジョーイ・テンペスト (ヨーロッパ)



8月19日は、スウェーデン出身のシンガーソングライター・ミュージシャンのジョーイ・テンペスト(Joey Tempest)の誕生日です。ハードロック・ヘヴィメタルバンド「ヨーロッパ」のボーカリストとして有名。1986年にシングル「ファイナル・カウントダウン」が25カ国のシングルチャートで1位を獲得、全世界780万枚の売り上げを記録した。

ロルフ・マグナス・ヨアキム・ラーション(Rolf Magnus Joakim Larsson、1963年8月19日 - ),プロとしてはジョーイ・テンペスト (Joey Tempest) としてよく知られている, は、スウェーデン出身のシンガーソングライター、ミュージシャン。

ハードロック・バンド「ヨーロッパ」のヴォーカリスト。同バンドの大ヒット曲「The Final Countdown」など数多くの作編実績を誇り、同国を代表するロック・アーティストとして知られる。

1979年、後にヨーロッパの前身となるバンド「FORCE」を結成。同郷のジョン・ノーラム(ギター)、トニー・レノ(ドラム)、ピーター・オルソン(ベース)というラインナップだった。そして3年後、FORCEは現行の「EUROPE」に改名する。

バンドはキーボード奏者 ミック・ミカエリ加入前までは(~1984年4月)、自身がヨーロッパの初期の2枚のアルバムでキーボードを兼任した。次作の大ヒット曲「The Final Countdown」については、メインキーボード・リフをミックから借りたキーボードで作曲した。ミックとは、ジャムセッションを通じて「Carrie」などを共作している。1984年に初来日。

1985年の終わりに、スウェーデンの映画である「ON THE LOOSE」のサウンドトラックを手がけたほか、またスウェーデンの支援事業であるSWEDISH METAL AIDにも「Give A Helping Hand」という曲を提供している。この曲のプロデュースは、後にヨーロッパのメンバーとなるキー・マルセロが担当した。さらに1年後、メンバー ジョン・ノーラムの妹であるトーン・ノーラムのアルバム『One of a Kind』のプロデュースを行った。

1992年、ジョン・ノーラムのアルバム『FACE THE TRUTH』収録の"We Will Be Strong"という曲で歌った。これはジョンがヨーロッパを離れて以来初めて彼らが共演した曲である。

同年、本体のヨーロッパが活動を停止。以降、ジョーイは3つのソロアルバムをリリースした。その1stアルバムである『A Place to Call Home』では、"Right to Respect"という曲でジョン・ノーラムをゲストに迎えいれているほか、いくつかのジョーイのソロアルバムではミック・ミカエリが共同で曲作りを行っている。

2004年、ヨーロッパが『THE FINAL COUNTDOWN』当時のラインナップで再始動を果たす。以後、同グループの仕事に復帰し、ロンドンを拠点に活動している。

引用元:ジョーイ・テンペスト - Wikipedia












ヨーロッパ (バンド) - Wikipedia



2024年8月1日木曜日

ジョー・エリオット (デフ・レパード)



8月1日は、イギリスのハードロック・ヘヴィメタルバンド「デフ・レパード」のボーカリスト、ジョー・エリオット(Joe Elliot)の誕生日です。

ジョー・エリオット(Joe Elliott、本名:ジョセフ・トーマス・エリオット、1959年8月1日 - )は、イギリスのロックバンド、デフ・レパードのヴォーカリストである。身長187cm。

1977年の11月、ジョー・エリオットは、地方のアトミック・マスのメンバーであったピート・ウィリスに乗るはずであったバスに乗り遅れた時に出会った。2人ともミュージシャンであることが分かり、残りのアトミック・マスのメンバーに会い、最初はギタリストとしてオーディションを受けた。バンドのメンバーは彼の声に印象を受け、彼をヴォーカリストとして雇うことにした。

バンドは、彼がバンド名を"Deaf Leopard"(聾の豹)に変えようという彼の提案を採用した。しかし、彼は当時のパンクバンド名に動物の名前を含んだものをつけるというイギリスの流行を嫌い、後に現在の綴りである"Def Leppard"(発音は同じ)に改称する。また、故意に異なった綴りにすることでレッド・ツェッペリンに敬意を表す意味もあったようである。

すぐに彼はバンドに不可欠な存在となり、また、彼の作詞力はバンドに著しく貢献した。エリオットは、閃きのもととして彼の広い音楽の趣味を活用し、優れた作詞をした。また、彼はデフ・レパードの曲は個人的な感情を含めたものではなく聴く人が容易に感情移入できる歌詞であるとも述べている。

彼は、ギターやドラム、ピアノ、キーボードも操ることができる。

引用元:ジョー・エリオット - Wikipedia














デフ・レパード - Wikipedia



2024年7月27日土曜日

寺田恵子 (SHOW-YA)



7月27日は、ミュージシャン・シンガーソングライターの寺田恵子(てらだ けいこ)の誕生日です。ガールズハードロック・ヘヴィメタルバンド「SHOW-YA」のリードボーカリストとして最も有名。

寺田 恵子(てらだ けいこ、1963年〈昭和38年〉7月27日 - )は、日本のミュージシャン、シンガーソングライター。

ロックバンドSHOW-YAのボーカル。千葉県船橋市出身。

影響を受けた歌手はカルメン・マキ、アン・ルイス。小学生の頃、カルメン・マキ&OZの「私は風」を聴いて自分と声が似ていることに感動し、漠然と歌の仕事がしたいと思うようになったという。

高校生の頃までは声の高さはソプラノで、高校時代の先生にはその声の高さから合唱部入りを勧められたこともあったが、カルメン・マキへの憧れから、枕を喉に当てながらシャウトしたりして声を潰していったという。

高校1年生の時、文化祭でボーカルを探していた男性バンドに誘われ、「カルメン・マキしか歌わないよ」としながらも加入、最初はこの男性主体の7人組バンドで活動。その後、このバンドが練習拠点としていたスタジオの店長に、女子大生バンド「メデューサ」(SHOW-YAの前身バンド)に加入してはどうかと話を持ち掛けられるが、最初は女バンドでは出来ないと思い、女バンドが嫌いだったとも思っていたことから3回断っていたが、メデューサのメンバーの一人が偶然アルバイト先の友人であったことがきっかけで加入を決める。

胸には薔薇の入れ墨(シール)があるのが特徴。カルメン・マキのルーツがジャニス・ジョプリンであると知ってジャニスも好きになり、ジャニスをモデルとした映画『ローズ』にも惹かれて薔薇好きになったことからだという。

脱退直後は「音楽を聴くのも嫌になった」ことから、実家で家事手伝いをしていた他、普通に就職することも考えていたという。ある日、友達と一緒にカラオケに行った時、友達にSHOW-YAの曲「限界LOVERS」を選曲され、本人曰く「無理矢理歌わされた」が、これを歌った時に急に涙が出てきて、「やっぱり私は歌(SHOW-YA)が好きだ」と再認識したという。そして寺田は元メンバーひとりひとりに頭を下げ、5年かけて説得し続けた末、SHOW-YA再結成に至った。

引用元:寺田恵子 - Wikipedia


















SHOW-YA - Wikipedia



2024年7月17日水曜日

ギーザー・バトラー (ブラック・サバス)



7月17日は、イギリスのベーシスト・作詞家・作曲家のギーザー・バトラー(Geezer Butler)の誕生日です。ハードロックバンド「ブラック・サバス」での活動が最も有名。

テレンス・マイケル・ジョセフ・バトラー(Terence Michael Joseph Butler、1949年7月17日 - )は、イギリスのロック・ベーシスト。作詞家、作曲家。

ギーザー・バトラー(Geezer Butler)の芸名で1960年代から活動を続けている。創設メンバーとして参画し、現在も活躍するイギリスのヘヴィメタル・バンド、ブラック・サバスのベース奏者、作詞家として著名。他に自身の名前を冠したヘヴィメタル・バンド、ギーザーでも活躍する。

1970年、ブラック・サバスのメンバーとして、アルバム『黒い安息日』(Black Sabbath) でデビュー。以降今日に至るまで、HR/HM界の第一線で活躍することになる。

オジー・オズボーンをフロントに立てたブラック・サバスにおいて、バンドのレパートリーの歌詞はほとんどすべてをバトラーが手がけている。彼自身、宗教、サイエンス・フィクション、ファンタジーなどに造詣が深く、「黒魔術」「オカルト」をバンド・イメージのひとつとして採用したブラック・サバスの世界観を具体化するにあたっては、彼の書く詞が果たした役割も非常に大きい。 ワウペダルの使用やダウン・チューニング等、サウンド・メイキングにおいても様々な工夫を凝らし、グループの個性を確立するのに貢献した。

1980年のオジー脱退後もロニー・ジェイムス・ディオ、イアン・ギランらを迎えて引き続きグループは活動したが、バトラーは1984年にブラック・サバスから脱退、ギーザー・バトラー・バンドを結成した。

1988年には、オジー・オズボーン・バンドに加入し、No Rest for the Wicked World Tour に参加した。

1991年、『悪魔の掟』(Mob Rules) 期のメンバー(トニー・アイオミ、バトラー、ロニー・ジェイムス・ディオ、ヴィニー・アピス)が再集結したブラック・サバスに復帰、アルバム『ディヒューマナイザー』(Dehumanizer)をはじめ、2枚のアルバムに参加するが、1994年、Cross Purposes Tour 終了後に再びブラック・サバスを脱退。

1995年、オジー・オズボーンのアルバム『オズモシス』に参加した後、自分のプロジェクト「ギーザー」を立ち上げる。以後、再結成ブラック・サバス(オリジナル・メンバー)やヘヴン・アンド・ヘル(『悪魔の掟』期のメンバー。ロニー・ジェイムス・ディオは2010年に死去)などで活動を続けている。

ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第21位に選ばれている。

引用元:ギーザー・バトラー - Wikipedia












ブラック・サバス - Wikipedia



人気の投稿(過去7日間)