誰もいなくなった土曜日の午前、鳥羽さんと古賀さんのイベントを聞いていた。
鳥羽和久×古賀及子「子どもと私の“観察”のしかた」『「学び」がわからなくなったときに読む本』(あさま社)『好きな食べ物がみつからない』(ポプラ社)W刊行記念
それぞれの著書でもそうだけれど、この対談でもいろいろな視線の向け方と、その裏にある
『「学び」がわからなくなったときに読む本』でまず衝撃的だった部分は、ここでも読めるこの部分。
勉強の価値を信じない人のなかには、「学校で習ったことなんて何も覚えていないから、意味がないよ」という人もいます。でも、そもそも大人は、自身の過去の勉強が現在どう役立っているかを認識できるほどの高い解像度で生きていないのです。
このようなことは鳥羽さんは今までもいくつかおっしゃっていたのだけれど、この言葉の強さは衝撃を受けて、ここで何日も止まってしまったのでした。そうやん、そもそも勉強することの価値を、どう役立っているかを自分がわかるだけの感度がないってことに、どうして気づかなかったのか。気づけなかったのか。気づけないけど、価値があるでしょ、って進むので良いんじゃない?と。
そして、今回の対談での古賀さんの発言、
「思おうと自分に揺さぶりをかけたときに出てくるものの貧弱さに本当に絶望している」
ここは本当に震えてしまうくらい感動した。
勉強が役に立つ、とか、自分の感情が大事、というような、問い直すことも難しいような「当然」そしてさらに「大切」と思われているものに対して、大切だからこそ、見つめ直すこと、捉え直すこと、それはとても難しい。「視点を高く上げて」見なければいけないその難しさだけでなく、それを外部に表現しようとすれば、往々にして最終的な表現型としての言葉としては、一見陳腐な、奇をてらったようなものに落ち着いてしまう。たとえば古賀さんの日記の文体は、そこに触れずに、感情禁止という筋を通すことで、逆にこの禁止している感情はどうなのかしら、と、敢えて触れないことでそこを考えることに繋がっている。鳥羽さんの方は直接的な言葉に結実することが多いけれど、その言葉には1回だけでなく2回も3回もひねりが加わっていて、そのひねり方は文脈を追わないといけないし、文脈を逃せば平たい物言いとして捉えることができてしまう。この両者の、言わないことで語ること、言っているけれど表層の言葉のつながりではないことを言っていること、というような複層性は、やっぱりチャーリーパーカーのアドリブみたいな「そこに意思がそうあったの!」というような驚きを読めば読むほどもたらしてくれる。使われている言葉はどこにも難しさがないだけに恐ろしい。
自分はずっとなすがどうして好きなのかを考えてきていて、そのことがいろいろなことに繋がることにとても楽しみを覚えてきたのでした。歯触り微妙だし、あくもどうなのよ、、と思うし、色味もまぁ、、、油との相性はすごいし味噌との絡みとかたまらないし、一方で秋なすをおいしい醤油でさらっと食べるとか震えるし、しかし味自体を表現することは難しいなぁ、、とかとか。「好きな食べ物がみつからない」は自分とは全く違ってそして全く違う、深さと軽やかさを両立した展開で、「好き」を考えながら、結局は自分や周りを丁寧にゆっくりと考えてゆくその歩みを追体験させてもらえる、本当に、古い友達のことを、やっぱりいいなぁ、と思うときと同じような感情を抱く一冊だった。
大切だからこそ、ずらしたり揺さぶったりたたいたりして、動かさないとわからないよね、とはずっと言ってきていることで、それを表現する場(というのがいいのかわからないけれど)自分の科学研究という仕事も、「みんなこれが大事と思っているけど、ほんまかなぁ」と卯がたってみることをやってきているつもりなのだけれど(これは、「これが大事ですよね」という先人の仕事があってこその、それを疑問視することができるというような仕事なので、その点では重要性とか価値としてはどうしても低くなってしまうのだけれど)、今まさに、おそらく自分が本当にやりたいと思っている授業の最後を準備していて(もう金輪際、今回やっているような変な授業はできないだろう)、ここでは「みんなで大事だと思っているものが本当か揺さぶってみるけど、その揺さぶることがどれだけ科学的に面倒か、そして言えることがどれだけ少ないか」みたいなことを話そうと思っていて、いろいろと繋がっているなぁ、と感傷的になっているので書き残してみたのでありました。