多くの日本人が、日本は無宗教で自分は無宗派だと思い込んでることは、たびたび各所で指摘されている。実際そう感じてる人が多いのだろうなとは思う。
だが事実はそうではない。日本はとても宗教的な国だし、日本人はすごく宗教的だ。
もちろん特定の宗教団体に帰依してるわけではない。帰依するだけが信仰ではない。もっと原始宗教に近いものを、日本人は持ち続けている。
たとえば因果応報という考え方。これは仏教の教えだが、多くの日本人がこの考えに沿って行動倫理を律している。良いことをすれば幸せが訪れる、悪いことをすれば不幸になる。なんとなく多くの日本人はそう思って生きてる。
万物に魂が宿るというのも、非常にアニミズム的であるが、多くの日本人はなんとなくそれを感じ取っている。物を大切にしなさいと教え教えられるとき、道具の手入れを怠るなと言い言われるとき、日本人はそこに宿るべき魂を感じ取っている。
なんとなく身につけてる交通安全の御守。幽霊やお化けに対する恐怖と、盛り塩などの対処。これらはみな宗教行動であるし、なんらかの信仰を持っている証だ。
こうした信仰は民間でなんとなく親から子へ、地域から地域へと伝播してるもので、特定の宗教団体がまとめあげてるものではない。それがゆえになんとも言えぬカオス状態になり、まったく秩序立たない宗教性がそこかしこに見られるようになっている。
とても危険な兆候だと思う。
古くは「水からの伝言」を信じないでくださいというページにあるようないわゆる似非科学の類も、こうしたカオスな宗教性から来るものではないだろうか。
以下の記事が大変気になった。
リンク先を読んだとき、これは非常に宗教的だと感じた。なにせすでに「発達障害は先天性」という知見が得られてるというのに「発達障害は予防、防止できるもの」としてしまっているのだから。そのやり方がまた「わが国の伝統的子育てによって」という誰も実体を把握できないような代物を持ち出して来るあたり、明らかに知性によるものではない。宗教的な臭いを強く感じる。
どうも脳科学うんたらとか言いだしてるようなので、これも似非科学のようだ。水からの伝言ネタもそうであったが、どうもこのような似非科学は教育と相性が良いようである。これを日本の教育学の堕落と捉えるか否かは難しいところであるが、日本の教育者にロクな学的知識のないものが揃ってることは間違いないようである。
似非科学は科学風の説明があるが、その論拠がないという意味で宗教的教義に非常によく似ている。納得感や腑に落ちる感覚だけでその教条を信じてしまうのは信仰そのものであろう。
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以前から人に勧められてはいたものの積ん読されていた山本七平の「空気の研究」を読んだのだが、やはりここでも日本人の持つ宗教性、日本教とでもいうべきものが描かれていた。髑髏を運び出す作業をしていたときに、2名の日本人スタッフだけが謎の体調不良を訴えて休んだ話など大変興味深い。いわゆるその場の空気、雰囲気に飲まれて体調を崩してしまったようなのである。
たかが人骨なのではあるが、そこに宿る魂、霊魂といったものを信仰する日本人には、そこから発生するムードに気分が悪くなるくらいのことはよくある話であろう。
昨年からネットスラングとして定着した「放射脳」も、非常に宗教的である。日本のそれこそ本当に伝統的な信仰であるケガレの概念に非常に良く似た反応をする。放射性物質がごくわずかでも含まれていれば、その他の成分を無視してでも避けるといった態度はなんら知性的ではなく、宗教的であるとしか言いようがない。
ここに描かれてるいわゆる「放射脳」になってしまった原因や過程を見ると、宗教的救いそのものではないかという気がしてくる。そう考えてると生レバー禁止法案やよく言われる履歴所の空白を嫌う傾向などもケガレ信仰の一環だろうかという思いにもとらわれる。
こうした土着の信仰をまとめあげる宗教団体をある意味失っている状態なのが現在の日本なのであろう。それがゆえに自らの宗教性に気付かない日本人が多いのだと思う。
良識あるものは自らの倫理観を問いなおせ。それが信仰でないことなどほぼ無いことに気付くべきだ。一つの宗教にきちんと向かい合うことも必要かもしれない。仏教でも神道でも基督教でもいい。
そうして自らの信仰に自覚的になることも、きっと必要なことだと思う。