文政十二年（1829年）6月8日――。
遠野南部藩の命によって、この町で大規模な山狩りが行われた。
指揮を執ったのは猟師の館野武石衛門。彼のもとには、武士だけでなく町人や農民までもが動員され、山一帯をくまなく捜索する大掛かりなものだった。その目的は、ただ一つ――鬼の討伐である。
時は南部藩がいくつかの「小南部藩」に分かれていた時代。遠野はその一つの城下町として栄えていた。そんな町で、ある一人の武士が突如として狂い、刀を振り回して人々を斬りつける事件が起きた。この武士は南部公の叔父にあたるとされ、由緒正しい家柄の者であったが、何が原因か突如として発狂してしまったのだ。
狂った武士は閉門を命じられたものの、逃げ出して山中へと姿を消した。そして山から山へとさまよい歩くうちに完全に理性を失い、時折里へ下りては人々を襲う「鬼」になり果てたのである。
この狂人武士が町近くの山に潜んでいるという報せが入ると、遠野南部藩は即座に討伐命令を下し、その任を武石衛門に託した。彼は名の知れた猟師で、火縄銃の達人でもあり、武士の位まで授けられた剛の者だった。しかし、今回の相手は「鬼」――彼自身も勝算は五分五分と感じていた。
山狩りの直前、武石衛門は集められた者たちに檄を飛ばした。
「油断するな！ 狂人とはいえ、元は武芸の達人だ。逃がせばお殿様に申し訳が立たぬ。俺が一発で仕留めるが、皆も手を抜くな！」
こうして山狩りが始まると、すぐに武士が見つかったとの報せが届く。場所は「陣が沢」の畳石。巨石の上で、その姿は目撃された。
武石衛門が部隊を率いて畳石へと向かうと、石の上には異様な人影があった。伸び放題の髪、ぼろぼろの着物、荒れ果てた髭――そして光を放つかのような狂気の目。その武士は、手にした蛇を噛りつき、まさに人外の姿へと変貌していた。
誰もが恐れおののく中、武石衛門は静かに距離を詰め、火縄銃を構えた。そして引き金を引く――。
「誰か！ 無礼な！」
それが、その武士が発した最後の言葉だった。武石衛門の銃弾は一発で彼を貫き、巨体が石の上に崩れ落ちた。その後、彼に近づいた者たちは思わず息をのんだ。目の前に横たわる武士は、天を突くような大男で、筋骨隆々のその姿はもはや人間を超えた「鬼」そのものだった。
こうして山狩りは無事に終わり、武石衛門は討伐の報告を南部公へと上げた。しかし、狂人武士は罪を重ねすぎたため、正式な墓には葬られず、農民たちの手によって「日陰」と呼ばれる山の麓に手厚く葬られた。墓碑には「忠山了儀居士」と刻まれ、せめてもの弔いとされた。
後に人々は彼のために念仏塔を建て、その塔には車輪がつけられた。「車仏」と呼ばれるこの塔を回すことで、彼の速やかな輪廻転生を祈ったのだという。
現在でも、お盆の時期になると近隣の住民によって供養が行われており、その墓も残されている。しかし、長い年月を経て風雨にさらされたためか、碑に刻まれた「忠山了儀居士」の文字は今ではほとんど読み取ることができない。
これは創作めいて見えるかもしれないが、紛れもなく我が町の歴史の一部だ。「人が鬼になる」というのは、こういった経緯から生まれるのかもしれない――。
（了）
[出典:http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1258346613/]
