これは、去年の五月頃に私が体験した奇妙な話だ。
その夜、私は深夜の静けさに包まれた部屋でパソコンに向かっていた。外は風もない静まり返った夜だったが、ふいに、どこからか歌声が聞こえてきた。高くも低くもない、しゃがれた女の声。メロディは不思議に古めかしくて、耳にこびりつくような調子だった。
私の家は田舎の住宅街にある。日中でも人通りはまばらだが、深夜ともなると薄暗い街灯だけが頼りで、人影などほとんどない。酔っ払いが歌いながら帰宅することがたまにあるが、こんな時間に老婆の声となると、妙な違和感があった。
気になって仕方がなくなり、私はパジャマの上に上着を羽織ると、玄関をそっと開けて外に出た。歌声はまだ続いている。老婆の歩く速度が遅いせいか、その声は家からさほど遠くなかった。慎重に声のする方へ向かうと、家の近くのT字路を右折したあたりで、ついにその姿を目にした。
薄暗い街灯に照らされて、老婆がぽつりと立っている。その背中は少し曲がり、ゆったりとした浴衣のような着物をまとっていた。髪は乱れて白髪が目立ち、まるで絵本から抜け出たような不気味さだった。私はできるだけ足音を立てないよう慎重に近づいていったが、突然、老婆が振り返った。
「誰だい?」
老婆の声に一瞬、心臓が止まるかと思った。逃げるべきか、それとも誤魔化すべきか、迷った挙句、私はぎこちなく笑顔を作り、「近所の者です。夜風に当たりたくなって散歩していたんですよ」と答えた。
老婆と私の間には五メートルほどの距離があったが、老婆はじりじりとこちらに歩み寄ってきた。そして何か小さな物を差し出し、「あげる」と言った。
反射的に受け取ったそれは、手のひらに収まるほどの大きさで、ビニールに包まれている。少し重さを感じる物だった。老婆に礼を言うと、私は足早に家へと引き返した。妙な気味悪さを振り払いたかった。
家の前に立つ電柱の下で、手の中の物を確認した。それは、両端をねじって包まれた古びたアメ玉のように見えた。「ただの飴か」と少し安心し、さっそく包みを開けてみることにした。
しかし、中から出てきたのは飴ではなかった。そこにあったのは、錆びついた六角ナットだった。私は思わずそれを手から落としてしまい、アスファルトにカランと音を立てて転がるそれを見下ろした。その瞬間、背中を冷たいものが這う感覚に襲われた。
反射的に顔を上げ、T字路の方に目を向けた。そこには、塀の陰から顔だけをのぞかせて私をじっと見つめる老婆の姿があった。目が合った瞬間、全身が硬直し、私はただその場に立ち尽くした。
家に入ろう。そう思ったが、すぐに気づいた。このまま家に入れば、老婆に私の家がどこなのか知られてしまう。なんとしても、それだけは避けなければならない。
私は家の前を通り過ぎ、そのまま次の十字路まで歩き、そこで足を止めた。老婆はまだそこにいるのだろうか?どのくらい待てば彼女はいなくなるのだろうか?考えても答えが出るはずもなく、いつまでもそこに立っているのは無意味だと思った。
意を決して再び家に戻ることにした。十字路を曲がり、T字路の方へ歩いていく。恐る恐る老婆がいた方向を見ると、そこにはもう何もなかった。塀の陰も、街灯の下も、どこにも老婆の姿は見えなかった。
私は安堵しつつも、不気味さが拭えないまま家に入った。それからというもの、夜の静けさの中でふとした物音を聞くと、あの歌声を思い出してしまう。老婆がなぜあんなものを私に渡したのか、なぜあのような時間に現れたのか、それは今でもわからない。
(了)