『実母と義母』
図書館で目に入るや、迷わず借りて持ち帰りました。著者である村井理子さんの作品はいくつか読んでおります。
何といっても『兄の終い』は強く心に残りました。
育ての母と、伴侶となった夫の母。
当たり前ですが、
違うのです。
そのコントラストが実に面白い。
興味深いのです。
理子さんの心に残る家の記憶。
例えば玄関だ。玄関さきには鉢植えがいくつも置かれていたが(急に数が増え、ある日突然しべて捨てられることが多かった )、半分は枯れていた。靴は常に散乱していた。主に私と兄の靴だったが、それ以外にも、長靴やら下駄やらハイヒールやらが、大量に脱ぎ散らかされていたし、傘立てには四人家族にしては多すぎる傘が乱雑に差し込まれていた。
靴箱には古い靴がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、鉢植え用の肥料が青いバケツに入れられた状態で土間を選挙し、靴箱の上には灰皿や花瓶や鍵や機械油など、雑多なものが(それも使用されているのを見たことがないようなものが)常に置かれていた。
おおお!なかなかの混沌だ!
と思いつつ読む。
片や夫くんのご実家は、村井氏が“最も優秀な主婦”だと断言する程のスーパーウーマン=義母による掃除が行き届いているのでした。
庭の雑草も落ち葉も抜かり無く除去されており、キッチンは料理前より料理後の方がよりきちんと片づけられ、玄関にはゴミの一つも、脱いだ靴の一足すらも残されていないのです。
家の有り様としては、当然後者が望ましい。しかし、私は理子さんのご実家の様子を見下すことはできません。だって我が家はどうしたってそちら寄りの状態だし、ふらりと訪ねてお茶飲むなら理子宅の方が落ち着くように感じてしまう。
それにね、この義母さんの考え方、そこを元に発する言葉の数々を知れば、「私は嫌!とても付き合いたくない!」と反応してしまいます。
まず義母には、出会い頭の事故のような形で、誰に対しても容赦なく浴びせる容姿に関する言及という悪いクセがあった。
理子さんもその被害者で、どれだけ言われたか分からないと書かれています。
また、自分の主義主張を、これでもかという程の強引さで進めようとする人でもあるのです。
両家の人、両家の様子は見事に違います。それでいながら、きれいに線引きして良い・悪いを断じれない様々なものが語られています。
実際、人に対して常に辛辣で、評価の厳しい義母は、異質の要素を持つ理子さんのお母さんを心底慕い交流をしています。
えええ〜?!、面白い!
本書を読めば、大方の人がアクが強く‘’ゴーイングマイウェイ‘’的な義母さんに対して好印象は持たないでしょう。しかし、
本書最後のページではこのように綴られています。
今の義母は、(認知症を発症した)しがらみやプライドをすべてそぎ落とした、ひとりの年老いた女性だ。こんなにも素直で、明るく、責任感があり、優しい人を私がどうして嫌うことができよう。
と書かれています。
()内はkyokoによる補足。
そこまでやるか!言うか!
という程の仕打ちを受けてきた理子さんの言葉なのです。
彼女の許容範囲が、広く深いために到達した境地のように感じますが、理子さんは実のお母さんとは、確執を残したままお別れをしておられます。
結局、本当の意味で和解することはなかったし、彼女と心を通わせることができたとは思っていない。育ててくれてありがとうも、今まで迷惑をかけてごめんなさいも言えてはいない。
村井氏は、ご自分の家庭を
「機能不全家庭」と断じています。
機能不全…かあ。
確かにね。
我が家もそんなところだわ。
でも、
でも機能万全家庭なんてあるのかな?
何をもって万全とするのか?
それだって明確ではありませんよね。
それにしても、ここまで赤裸々に家族を書くとはどんな心理によるものなのでしょう?
過去にも同様の疑問を持ち、次のように書き残しています。
kyokoippoppo.hatenablog.com
家族の物語…しかもその暗部を書き残す。
これはいったいどのような、心境でなされるのでしょうか?
もちろん、誰でもが体験する出来事ではないので、とても嫌な言い方をすれば、題材は「ネタ」にもなりましょう。
でもそれだけの理由で、この作品が生み出されたとは考えられません。
人は誰でも、味わった時間をスルスルとなんの抵抗も無く通過して、先へ先へと滑るように進むわけではないのですね。
ある人は文学作品にして、
ある人はブログ記事にして、
書くことをしない人なら人に語る行為によって、
自分の体験を振り返り、なぞりなおし、再度取り込んで、苦しかった体験をも、自身の血肉(人生の蓄えのようなもの)にしていこうとするのでしょう。
別の言い方をすれば、そんな体験こそが人の血肉となっていくのかもしれまん。
家族の物語はとても興味深い。
それが、ノンフィクションならなおのこと。
私もはてなブログにて、我が家のこと、我が子のことなど、さんざ書き散らしてきました。
でもね、すべて洗いざらいっていうわけではないのです。
何をも隠さず、さらけ出された家族の話。
村井氏のお兄さん、お母さんは既に亡くなっており、義母さんは認知症を発症している。だから書けたのかもしれませんがね。
私は家族の話に引き込まれます。
何故なら「家族」こそ、私にとっては最も身近なものであり、自分の思いが注がれるものであり、ままならず苦しむ場所でもあるからです。
と共に、希望を託す大切な場所でもあるのです。