火曜、非透析日なので出社。朝、駅で前日の夜がまだ続いている3人組がおり、その会話の内容が興味深かった。
「それって心理的不協和の解消でしょ?」
と、3人のうちの1人に語りかけ、語りかけられていたひとはほどよく感心していたところに、
「いや、それを言うなら認知的不協和じゃない?」
もう1人が言葉を訂正していた。僕はこのとき初めて認知的不協和という言葉を知ったのだけど、3人中2人が知っているような言葉なのか。それとも類友というやつで、似たような知識を持つもの同士で意気投合しているということなのかもしれない。いずれにせよさらっとそういった言葉が出てくる飲み会は楽しそうだ。そりゃ夜も終わらない。
認知的不協和について知らなかったので当然調べたのだけど、ざっくりいえば自分が思っていたことに対して実行不可能な事態に直面してしまったときに感じる不快感であるようだ。そして、その解消とは、実行不可能なものを下げたり、自分を正当化することで自分の不快感を拭い去る、ひいてはプライドを保つみたいな行為になるのだと思う。有名な例としてはイソップ寓話の「すっぱい葡萄」だそうなのでそちらを参照されたし。
褒められた感情ではないなと思いながらも、まあなんかわかるなーと思ってしまう。自分のことで言うと、学生時代にギターの速弾きが上達しないことに対して、「ギターはテクじゃないから!」とか言っちゃってたのとか該当しそうな気がする。いや、うまいに越したことないわと我に返ってきちんと練習したけど。(でもあまりうまくはならなかった)
めちゃくちゃ顔の整った到底自分には手の届かない芸能人なんかのことを「でも性格悪いらしいよ!」とか言うのもある意味では認知的不協和なんじゃないかと思う。あとはナンパして無視とかされて無視した相手に罵詈雑言を浴びせるなんてのも認知的不協和の解消であるように思える。直前まで良いと思って声かけてたんでしょうに。そんなこと言うひとについて行かなくてよかったねでしかない。自分の名誉のために言っておきますけど僕はどちらもしないですよ、念のため。
そんな認知的不協和。どんな流れであの3人の会話に登場したのだろう。通勤時だったので言語収集しかできなかったけど、エピソードまで聞きたかったな。まあ他人の会話に聞き耳たてなさんなって話ですけれども。
ひとつ賢くなって出社。でもたぶんその代償として何かひとつは確実に、もしかしたら複数の言語を失っているのでプラスにはなっていない可能性はありつつ、ひとまずこの日の仕事には支障がなかったのでよしとする。
やいやいと仕事を片付け待望のお昼の時間。待ち侘びてはいたものの、何を食べるかが決まっていない。ひとまず動きながら考えるかとオフィスを後にする。こういうときは大抵ラーメンに落ち着くのだけど、次の日に在宅勤務のお昼休みの時間に用事を済ませてその近くでラーメンを食べようと心に決めていたのでラーメンは避けたい。
思案の末、以前職場のグルメさんに教えてもらっていた宮崎チキン南蛮のお店に行くことに大決定した。グルメさんご推薦のお店ははずなさい。認知的不協和を覚えた代償に失う記憶がこのお店のことじゃなくてよかった。
結果、約束された勝利へのストーリーを辿がごとく栄光を手にしたのであった。
チキン南蛮に舌鼓を打ちながら店内の様子を改めて気にしてみると、店内BGMがお正月みたいなことになっていることに気づく。春の海ではないけど、ほぼ春の海みたいな雰囲気を醸し出している曲だった。
この一帯、外国人観光客がめちゃくちゃ多いのでそれにおもねっているのか。でもそこまでやっちゃうと「欧米人が考える間違った日本観」になってしまいそうだけど、訪れた本人たちからすれば「思ったとおりだ!」となるもんなんだろうか。まあ僕もフランスに行っておしゃれな飲食店でシャンソンとか流れてたら「ぽいな」と思ってしまうかもしれない。
大満足でオフィスに戻り、同じ島に務める姐さんに勝利を告げた。ほぼ出社した意義は果たしたと言うことで腹ごなしとして退社時間までの仕事をこなした。
せっかく覚えた認知的不協和と、この日食べたチキン南蛮で何かうまいこと言えないかなとしばらく考えてみたが何も出ない。そんなねづっちみたいなことできるわけなかった。そのふたつを結びつけるなんてナンセンスだからね!とかいうと、ちょっと認知的不協和の解消っぽくないですか。いや、違うか。難しいこたあわかんねえでげす(๑´ڡ`๑)