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okite910nete1820’s blog

歴史が嫌いだった自分が学び直して、簡単な歴史の地図を作ってみます。

同郷の入る先。

どうも題名では””仮名変換””が上手く行かない模様でした😅。だったら直せよって話ですが、何時もの様に自分のブログのお馴染みシリーズ 

 

『 同音異場所 』 に行って来たお話をしたいと思います。

 

(写真多め、場所のネタバレ含みます。)

 

””道鏡の配流先””

 

前回お話したこのブログのニックネームの由来のお話。宇佐八幡宮神託事件後、後ろ盾であった称徳天皇を失い、一時は日本のTOPの座を脅かすような存在となった道鏡も最終的には流罪となり、地方へと左遷される事となりました。

 

okite910nete1820.hatenablog.com

 

1200年も前のお話なのに、現代ともちっとも変わらない処遇に、面白味を感じるのは自分だけでしょうか?。

 

そんな道鏡が島流しになった先と言うのが我が県になります。奈良時代、坂上田村麻呂が東北制定をまだしていない時代のお話なので、その時代、いわば栃木は日本の最北端‥‥。と言う扱いになっていました。(多分。)

 

栃木以北は、中央からの監視や支配もまだ及ばない時代と言う様な位置付けです。当時の日本の最北端の地に道鏡は島流しにされたのでした😥。

 

訪問の際学んだのですが、貴族や公卿などの配流先は””大宰府””。位の高かった僧侶などの配流先はここ””栃木””。と言う様に、身分によって配流先が分れていたみたいでした。

 

やって来ましたここは‥‥‥

下野薬師寺歴史館

ここ下野市にある、 ””下野薬師寺”” の発掘跡地に建てられた歴史館になります。

雨の日の休日の閉館前の時間帯‥人影はありません

休館日ではありませんでしたので中を見学して来ました。

下野薬師寺

680年頃、下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)が大きく創建に大きくかかわった寺院だと云われています。下毛野朝臣古麻呂は大宝律令制定にも関わり、地方出身者としては当時珍しく中央政権で大出世を遂げた人物になります。

 

当時の寺院の大きな役割として東国での ””受戒を行う場所”” と言う部分が一番重要な役割でした。 ””受戒””じゅかい とは簡単に言うと 『 お坊さんになるための免許 』

当時の僧は税の免除など優遇された部分が多く(今もなのかな?)、多くの者が勝手に””僧””を名乗りだしました。そうなると当然””質””も落ち、このままではいけないと、僧になる””資格試験と免状””的な制度を設けました。

 

まぁ分かり易く言うなれば現代で言う 「運転免許センター」 的な物でしょうか?。全国的に不便な所にあるイメージが強いですもんね‥。栃木だけなんですかね??。

 

その僧侶に成る為の試験の場所の事を 【戒壇】かいだん と言い、九州地方では福岡の筑紫観世音寺、関西では奈良の東大寺、そして東国ではここ下野の下野薬師寺であり、全国で3ヵ所しか存在しませんでした。ちなみに戒壇院を創設したのがかの有名な””鑑真””。唐招提寺を建てた僧として有名だと思います。

 

また、前回お話した ””道鏡”” が宇佐八幡神託事件後、配流先としてやって来たのがこの寺院。配流から2年で道鏡は亡くなりました‥‥。その際は一般人と同じように葬られたと言う事です‥‥。一時は国のTOPにまで手の届きそうだった道鏡。最期を知り少し感慨深い思いを感じました‥‥。本当に権力とは??力とは?名声とは?幸せとは?と思ってしまう出来事ですよね‥。

 

館内へと入って行きます。入場料 無料。その代わりに入り口に簡単なアンケートを記入します。

 

下野薬師寺の再現ミニチュアがありました

 

 

グッズ販売も。

東の飛鳥とはだいぶ大きく出ましたね(笑)

出土した物の展示などもありました

 

奈良時代から時が流れ、後の時代には運転免許センター 戒壇場 が増え、下野薬師寺の重要性が低くなり、徐々に衰退していきました。どんな場所でも、物でも、人物でも、盛者必衰と言う理は変わらないのですね‥‥。


2Fに展望台があるのでそちらに行って見たいと思います。

 

見渡す長閑な田園風景‥‥‥

現代でもこの長閑さ‥‥。1300年も前の時代はさらに長閑だったに違いありません。都の華やかな暮らしを経験し、日本の最高権力目前まで上り詰めた者がこの景色を見て、どんな思いで過ごしたのでしょうね‥‥?。もしくは何かを悟り、全ての煩悩を吐き出し、案外楽しく暮らせたのでしょうかね?‥‥。もともとは””僧””だったのですからね‥。

 

この場所から右手側方面に、下野薬師寺跡が発掘された場所があるのでそちらに向かいます。雨の日の夕方と言う事もあり、これだけ広大な施設を貸し切りです。正にUNDERTOURISM😆。京都にあったら、人が沢山いるはず‥‥。いないか?。

 

矢印の方に進んで行きます

下野薬師寺歴史館からは徒歩で5分位。

下野薬師寺跡

本当に何もありません(笑)。奥手の方に回廊の一部を再建した物はありましたが、他には特に何もありません‥‥。

 

CG再現の下野薬師寺跡の解説はありました

 

 

大々的な発掘作業が行われた時の様子もありました

 

本当に何も無い広大な平地です(笑)


奥の再現回廊まで歩いて見ます。

 

回廊建物の復元

 

こんな風に、戒壇の周りをグルリと回廊があったのですね‥


隣にお寺の本堂があるので、そちらに向かいます。足利尊氏の時代に、寺名を下野薬師寺から安国寺へと改名されましたが、平成の大修理の際に、寺名を元の””下野薬師寺””へと戻しました。

下野薬師寺 – 日本三戒壇のひとつ (shimotsuke-yakushiji.or.jp)

shimotsuke-yakushiji.or.jp

そしてつい最近周囲の修繕も終え、綺麗な寺院を自分は見れたと言う事になります。

 

下野薬師寺跡より、お寺の本堂の方へと入って行きます。

 

最初に見えてきたのが戒壇堂です。


江戸時代に建てられた在りし日の戒壇堂を偲んで建てられました。

 

戒壇堂

令和3年に鑑真像ガンダーラ像を模した丈六釈迦如来像が祀られました。新しいなぁ?。と思ったら、つい最近のことだったのですね。

 

 

手前側が唐招提寺を建てたと言う””鑑真像”” 奥は””丈六釈迦如来像””

鑑真は下野薬師寺を一躍有名にした戒壇を作った人物でもあります。ですので鑑真像が祀られているのですね。

 

木目が特徴的な””欅””。多くの構造物や像など随所で使用されていました。

 

天井を見上げます

 

最期に改修工事が最近終わった本堂を目指します。途中にも鑑真にゆかりのある物も。

 

 

鑑真大和上宝塔

令和元年11月設置。
奈良 唐招提寺よりいただいた鑑真大和上御廟(お墓)の霊土と金堂基壇の霊土、下野薬師寺戒壇堂の土が納められています。

引用:下野薬師寺公式HP

 

 

本堂へとやって来ました。

 

下野薬師寺本堂

令和5年のクリスマスイブの日に、ご本尊のお身代わりとして撫で薬師如来が開眼しました。つい半年前の出来事ですね。

体の悪い場所と同じ部分の如来様の部位を撫でると、不調が直ると云われます。長野の善光寺の””賓頭盧尊者像””(びんずるそんじゃぞう)などが全国的にも有名だと思います。

 

撫で薬師如来像

凄く良い顔していると思いませんか?

自分頭が悪いので、頭をナデナデして来ました。痛いとか病気では無い””悪さ””なので、果たして効果があるかは分かりませんが😅、少しでも頭が良くなれば良いと思います。今更ですがね(笑)。

それにしても、目尻が下がり、口角が上がり、満面の笑みを浮かべる如来様。心がほっこりしますよね😊。

 

さて、そろそろ帰りましょう。

 

下野薬師寺を後にします

 

ここ意外に凄く良かったです



 

 

今一度学び直しをし、またぷらっと来てみたいと思いました

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
帰りは勿論お土産タイム。

道の駅 ””しもつけ”” に寄りました


県内でも有数の大きさを誇る道の駅。道の駅にして埼玉の ””イオンレイクタウン”” の1/15位の大きさを誇る巨大な道の駅。(勝手な自己測量でのたかまろ調べ。情報は不確定です😅。)

 

広角で撮るから余計に広く感じます

 

今回のお土産


売り子のお姉さんが勧めていたTV番組の””アンビリーバボー”” にも出た事がある群馬の有名な納豆。『 軌跡の納豆 』 として放送されたとか‥‥。そんなミーハーな意見に流され思わず買ってしまいました💦。

 

栃木の道の駅ではここでしか販売していないのです。製造は群馬の下仁田なんですけどね。

 

小粒を2ヶ購入。

 

さぁお家に帰りますか😄。大満足な下野薬師寺でした。ここは多分奥さんも子供も喜びそうに無いので、次来るときもひとりかなぁ。

 

最後まで読んで頂いた方、感謝します!。ではまたです🖐🖐🖐。