皆さん、こんにちは!これを書いているのは真冬、劉備が体験した酷暑でも少し憧れを感じてしまう季節です。
さて、今回のテーマは夷陵の戦い、以前取り上げた陸抗の父である陸遜が劉備を破った戦いとして知られています。
戦史は好きですが、ここでは現地の感覚にどちらかといえばスポットを当てて記してみたいと思います。
劉備について
さて、この戦を取り上げる前に、劉備が戦上手であったことを取り上げたいと思います、それも皆さんが思う『演義』のイメージよりはるかに。
劉備は徐州を始め戦に負けて全てを放り出すイメージが強いですが、実際は曹操や騎兵隊長としての曹仁など最強クラスの武将に大量の兵力差がある時以外は結構勝っています。
呂布に裏切られた時は兵站が切れて兵が逃亡していますが、それまでは袁術軍と拮抗しています。そもそもデビューの黄巾軍で程遠志を斬るに始まり、夏侯惇と李典の博望坡の戦いは実際は劉備が指揮していますし、漢中の戦いでは夏侯淵を斬り、曹操を撤退させています。
孔明の北伐でも猛将といわれる魏延などを追っていくと先主即ち劉備に取り立てられたという人が出てきており、逆に孔明に取り立てられたという武将はほとんど聞きません(姜維とかは例外かもですが)。
そんな劉備が慶州争奪戦後の関羽の弔い合戦に望んだのがこの戦い。ただ、地図を見ると苦しいなと思います。
白帝城訪問記
筆者は劉備と全く同じルートを旅行で通ったことがあります。現在の三峡の旅行ルートですが、まずさらっと表れている左端の白帝城(奉節県)までが、重慶から遠いのです。ほぼ400㌔あり、高速が完全に通る前は8時間くらいかけて行ったと記憶しています。
因みに筆者は更にマニアックな道程で、この地図外の奉節県の隣の雲楊県にバスで行き(時間の関係でバスの便がなかったため)そこから一日一便のバスをタッチの差で逃したため、現地の人が利用する船で移動しました。確か4,5時間、小さい船で水は汚く、通路で小さい子供がおしっこを垂れ流しており、挙句の果てには現地民がたぶん食べた食料の紙の包みが上から降ってくるというカオスだったのを覚えています。
さて、やっとスタート地点にたどり着きました。ただ、筆者は白帝城から宜都(地図右下)までは夜行のバスに乗ったため景色を見れていません。
(白帝城)
ただ、体感120㌔位で蛇行する山道を飛ばしており、ここで交通事故で死ぬのは嫌だ、と思いつつ寝てしまったのを覚えています。更に筆者は逆コースで武漢から重慶への高速鉄道で移動したこともありますが、宜都を超えるとほぼトンネルでした。
ただ時々見える外の景色は、山間に雪が積もるきれいな景色だったのを覚えています。かなり南の方なのですが、雪が積もるくらい高度があるのです。ということで、重慶から少し、武漢から少し過ぎるとひたすら曲がりくねった山道、これを通り抜けるのは相当大変だったろうと想像します。
もう一つ、劉備の辛さは四川盆地の暑さにもあったと考えます。重慶の火鍋は辛いことで有名ですが、現地人は口をそろえて、盆地は暑くて湿気が高いからと言います。実際、重慶市内が夏40度に達したニュースも頻繁に見るくらいです。
このような地理的要因で、夏になると暑さがどうしようもなくて森林などに基地を築いたとなるのは仕方ないと思うのです。
因みに奉節県から白帝城まではタクシーで行き、川の中に浮いている城のため、渡し舟に飛び乗ってたどり着きました。
三峡下りの観光客と余りに違う環境に激しく虚しさを覚えたのを記憶しています。
さて、地図をもう一度ご覧ください。益州から荊州に行くには、上庸からの漢水ルートが魏軍にふさがれている以上(この地図の上の枠外です)、長江を下るほかありません。となると守る側も主戦地を絞りやすくなります。
孔明の北伐でも通過ルートを変えており、不備に出づるためには複数の侵攻ルートが本来必要だと思われます。
というわけで、劉備軍は単調な攻撃、伸びきった補給線に先ほどの暑さなどが加わり、挙句の果てに長江を水軍で正面突破され、退路をふさがれ火計を食らうという悲しい結末になってしまいました。孔明や趙雲が反対したのもむべなるかな、という感じです。
がしかし、地理的に後退するという囂々たる非難をものともせず、結果と時機を読み切った陸遜はさすがと思います。
実際江陵までは目と鼻の先であり、最終防衛ラインを突破されたら終わりという局面で、劉備相手に勝ったのは名将たる所以でしょう。こうして劉備三兄弟は関羽を始め皆非業の死や、返り討ちに遭うなど、陸遜一人に誰も勝てなかったと言わざるを得ないでしょう。
『演義』ファンとしては大変残念です。
ただ、劉備の逃げ足はさすがで、自分以外の人々が多く戦死したり、黄権のように魏に備えて駐屯していたら逃げ道を断たれたりする中で、徐州でも遺憾なく発揮された最後の逃げ足を使い無事に生き残っています。
かっこいいとは言えませんが、最期まで劉備らしい面を見せているなと皮肉ではなく思ってしまうのも事実です。どうか全ての三国志ファンに、改めて劉備を評価しなおしつつ、愛してあげてほしいと個人的には思います。
それでは、またの機会を見て。写真が見つかったら赤壁なども取り上げていきます。
(T)