こんにちは。
昨日は阪神淡路震災から30年経ちました。式典も多く開催されて、復興してはいますが改めて凄い震災であったことを思い出し悲しみも強くなりました。
私は震災当日は、埼玉県川口市に住んでいました。まだ成人の日が1月15日に固定されていて、日曜日のため翌16日が振替休日となり、17日は火曜日でした。30年前の記憶ですのでリアルタイムの記憶とその後テレビ等から入った情報が混じっていると思います。ご容赦下さい。
17日は仕事で高崎市に出張予定で、5時過ぎに起きて準備していました。6時過ぎの電車🚃なので、少しベッドに入り文庫本を仰向けで読んでいました。
すると蛍光灯(四角のもの)が急に円を描くように揺れはじめました。感覚では体に揺れはなかったと思います。まだ暗かったですが朝6時前なので、ポルターガイストなどの錯覚ではないなと思って、以前の地震の話を思い出しました。遠方で地震があったらこのような状況になるらしい。
テレビ点けましたが、ニュースはなくて、どこかのテレビの画面に東海北陸で強い地震の表示がありました。
その時、父が入院していたので自宅に電話かけて無事を確認出来ました。その後、彦根、豊岡ともう1カ所が震度5になりました。再度電話しましたがつながることはありませんでした。
その後、日テレ:正式には読売テレビの脇浜さんが(局・人間違えていたらすいません)停電した自宅から何か伝えていました。まさか、大惨事になっているとは思わず、高崎市に向かいました。時間の経過とともに事実が分かります。関東地方では日常生活が始まっていました。だんだんと神戸の被害が大きいと分かって来ました。
携帯電話の普及していない時代でしたので、高崎駅前の公衆電話から阪急園田駅近くの叔母さんに連絡しました。何とつながったのです。ついでに母親にも連絡しました。
高崎の事務所についたら京都市出身の同僚が心配していたので、さっき駅の公衆電話からつながった話をしたら、会社の電話借りてかけましたが繋がりませんでした。
公衆電話が優先されるとか、後日聞いて知りました。
仕事は進めて帰宅する頃に、死者行方不明者数が出ていたと記憶していますが、後日のことだったのかな?
その後時間が経って、学生時代の友人の安否も分かって来ましたけど、一人だけ確認できませんでした。西宮市で新築マンションを買って間もなく入居とは聞いていましたが、テレビに表示される名前を毎晩探しました。
無事が確認出来たのはだいぶ経ってからでした。
その後、神戸大学に講演を聞きに行くことがありましたが沿線はかなりの被害でした。
多くの方がお亡くなりになりました。
ご冥福をお祈りいたします。