1月17日は、私にとってある意味特別な日かもしれない。
ちょうど30年前の今日の日、私はJ神戸市長田区にあるJR新長田駅近くのマンションの一室にいた。
そのマンションはJR新長田駅から北へ300m上がったところに位置した11階建てのマンションで私たちの一室は10階であった。
あの日は月曜日か火曜日か休日明けの平日だった。
就寝していると、突然に恐ろしいほどの轟音とともに耐え難いほどの「揺れ」が襲ってきた。それは日常電車などの乗り物に乗っていても体験したことのない大きな「揺れ」であり、私はこのままマンションが倒れてしまうのではないかと思ったほどである。しかも、それが大地震だとわかるのは揺れがおさまった数秒後であり、揺れの途中はそれが地震なのか、他国からのミサイル攻撃なのか思考がまったく回らなかった。それだけ身体が激しく揺さぶられ、マンションがこのまま傾いて倒れるかのような勢いと感覚に囚われていた。
大きな揺れがおさまると、私は南側のベランダに出た。その瞬間にすべてが判然とした。瞬間的に「関西大震災だ」と言った。揺れが激しすぎたためにこのときは大阪神戸を含めた広範囲で大地震が起こったのだと勝手に思ったのだ。(あとで神戸市中心に被害だということがわかる。)
目の前の景色は今でもはっきりと覚えている。
白い煙がモクモクと立ち込めていた。驚いたことにマンション前のコンクリートのビルがいくつか倒れていたのだ。そのビルが倒れたために起きた土煙を10階まで風が巻き上げていた。また、駅南の一か所から早くも火の手が上がるのが見て取れた。
そして、不思議だったのが、とても静かだった。静寂といっていい。サイレンも聞こえていない。消防も警察も沈黙していた。それもそのはずで長田区内のすべてが被災していたからだ。
部屋の中も嵐が過ぎ去っていったような情景になっていた。明かりをつけようにも、天井から吊り下げた照明器具はことごとく根元から破断しており、そこにはなかった。冷蔵庫のフリーザーの扉は引きちぎられ、キッチンの壁にめり込んでいた。廊下はなぜか水浸しだった。(風呂の水がすべて揺れによって押し出されていた)
それでも私は新長田駅南に住んでいる両親の安否を確認するために、揺れがおさまった10分後くらいに外に出た。
そのまま南に10分下れば、実家である。しかし、すでに新長田駅舎は轟々とうねるような火の手が回っていた。
私は仕方なく、迂回して湊川沿いを南下した。湊川インターチェンジの高架がぶざまに落下していた。道々の木造住宅はほぼ一階部分が押しつぶされ二階部分が階下になっていた。つまりはぺしゃんこになっていた。
実家も同じような家の造りだ。頑強なはずがない。両親と弟はダメだろうなと半ば絶望しながら、実家に走った。
結果的には、両親と弟は無事であった。ボロ実家はなんとか健在であったのだ。
写真のように実家の前の家々はほとんど壊滅していた中では、奇跡だと言える。
これは学生時代に私と弟がプロレスごっこを二階でするうちに本当に傾いてきたためにT字型に鉄骨を入れるなど家の強度を高めるためのリフォーム工事を行っていたのが奏功したのかもしれない。
いずれにしても、全員無事だった。
そして両親は30年経ったいまも健在である。
時々、新長田の実家に帰ることがある。しかし、悲しいことに私の知っている新長田はそこにはない。街づくりの開発が進んだのはいいが、若い人々はこの新しい無機質な町から去っていった。
震災はすべてを奪ってしまう。故郷も奪っていった。ただ命が助かったことにはおおいに感謝しなければならない。今を生きていることの感謝を。
今日、その30年前1995年1月17日を少しだけ振り返ってみた。
ご一読ありがとうございました。