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筆者の磯野によると、いまだに病院の面会制限が続いているという。15分の時間制限や、年齢制限があり、事前登録した家族2人のみ、というようなルールもあるという。実際は面会制限を緩和している病院も増えてきているようだが*1 、確かに、磯野が言うように、そうした年齢制限や人数制限によって、亡くなりそうな母親に会えない、ということが起こり得るかもしれない。磯野は、一回しかない死という「かけがえのない時間に何らかの形で関わることで、人は死について学び、それをまた誰かに引き継いでいく」と言う。面会制限は、「その命の流れに切れ目を入れる」ものであり、また、医療の手前にある、「人と人とのつながり」という社会のインフラの「土台を崩す」ものだ、と言う。しかし、病院の面会のほとんどは、「亡くなりそうな家族に最後にひと目会う」のようなものではない。病院の面会に来る人は、「死について学ぶ」ために来ているのではない。「生きている人に会いたい」からこそ来ている。面会の意義と「死」が唐突に結びつけられていることにまず違和感を覚える。
磯野は、現在の病院が面会制限を続けていることの本音には「管理面の楽さ」がある、と言うのだが、面会制限の目的は、第一には感染症の拡大のリスクを軽減するためである。それはひいては、入院患者たちを「死」から遠ざけ、回復、あるいは軽快した後に患者が「人と人とのつながり」を再び持てるようにする、その可能性を高めるためである。磯野は「医療者も非医療者と変わらぬ日常を送る今、面会だけをことさら危険視する合理性はありません」と断言する。感染症拡大の危険が完全に去った、あるいは、面会制限が感染症拡大を防止する効果を全く持たない、というのであれば、病院が「不必要な」面会制限で患者や家族に苦痛を与えている、という主張もまだ理解できなくもないが、実際にはそうではない。今年の冬は、インフルエンザ患者数が1999年の現行統計開始以降で過去最多となった*2 。また新型コロナウイルス感染症の流行も収束しておらず、現在は第12波の感染拡大の中にある。5類化以降のコロナによる死者は4万人を超え、これは同時期(23年5月〜24年8月)のインフルエンザ死者の約19倍である。多くが、高齢者や基礎疾患を持っていた人だが、若年者でも死者は出ているし、深刻な後遺症で苦しんでいる人もたくさんいる。こうした状況の中感染症対策を緩和することは、むしろそれこそが合理性がない。面会制限に感染症拡大防止の効果が一切ないと言うなら別だが、それはありえないだろう。
磯野は、過剰な面会制限を続ける医療現場において「医療の道徳が瓦解」し、「医療崩壊」が今まさに起こっている、と言う。しかし、「医療崩壊」とは、「必要な医療が提供されない」事態のことである。伊藤周平は、『岐路に立つ日本の社会保障──ポスト・コロナに向けての法と政策』(日本評論社、2022年)において、コロナ以降の医療などの「社会保障の機能不全とそれによる国民の生存危機」を「コロナ危機」と呼び、こう言っている。
〔「コロナ危機」の〕最大の原因は、公立・公的病院や保健所を削減し、病床を削減し医師数を抑制してきた医療費抑制政策、さらには、何度も大きな感染の波にさらされながら、医療費抑制政策を転換することなく、医療提供体制や検査体制の整備を怠り、コロナ禍にあってもなお病床削減を続けている現在の政権の政策姿勢にあるといえる。
(伊藤周平『岐路に立つ日本の社会保障---ポスト・コロナに向けての法と政策』日本評論社、2022年、p.4.)
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そもそも、コロナ禍の初期以来、多くの医療機関、医療関係者は、スタッフの不足、医療資源の不足の中、過酷な環境で命を削ってずっと働いているが、そうした状況を引き起こした原因は、コロナ禍という「天災」だけではない。伊藤が言うように、政府は、「医療費削減」の名のもと、医師数の抑制、保健所の削減、病床の削減を、コロナ禍においても続けている。
日本の医師数は、人口1000人当たりでみると2.5人で、OECD加盟国のうちデータのある29か国中の26位である。厚生労働省の「医師の働き方改革に関する検討会」では、過労死ラインの月平均80時間を超える時間外労働(休日労働を含む)をしている勤務医が約8万人にのぼるとされている。一方、人口あたりの日本の看護師数は多いと言われるが、日本の入院患者1人あたりの看護師数は0.86人で、欧米諸国の2分の1から5分の1の水準にすぎない*3 。実際、現場から聞こえてくる悲鳴のような看護師の声からも、深刻な看護師不足が起こっていることは明らかだろう*4 。長時間・過密労働・低処遇の中、多くの看護師が辞めており、ますます看護師不足が進むという悪循環である。
また、1994年の地域保健法の制定以降、保健所の統廃合と削減が続き、保健所数、保健所の職員数ともに、激減している。検査技師の減少は顕著で、1990年の1613人から2016年の746人と半分以下に減少している*5 。
病床の削減方針は顕著で、歴代自民党政権のもと、1999年から2019年までの間で、日本の病床は約25万以上削減されてきた*6 。2020年には「病床機能再編支援事業」が創設される。この事業は、稼働している急性期病床を1割以上減らしたり、病院を再編統合した医療機関に対し消費税を用いて補助金を出す仕組みである。社会保障の充実のためと称して増税された消費税を社会保障の削減(病床削減)のために用いる、という、倒錯した仕組みである*7 。この事業により削減された病床は、2020年度は2846病床で、このうち急性期病床が2404床を占める。2021年度はやはり急性期病床を中心に2770床が削減されている。
こうした自公政権による医療費削減政策の背景に、財界の意向があることも明らかである。厚生労働省が、2022年9月30日に開いた有識者会議で「病床機能再編支援事業」による病床の削減について報告した際、同会議の経団連の委員は「取り組みが非常に少ない」と述べ、統廃合の促進などを求めたという*8 。
いや、諸外国に比べて、日本は病床数が多すぎるのだ、ともいわれる。しかし、新型コロナに対応できる急性期病床や感染症病床はむしろ少ない状況にあった*9 。そして、事実コロナ禍において病床が足りなくなったのである。すでに、新型コロナ感染拡大の第3波(2020年12月末~2021年1月)において、入院病床の不足から重症者であっても入院できず、入院患者を選別するという「命の選別」が行われていた*10 。その後、第5波(2021年7月末~2021年9月)のさなかの2021年8月2日、政府は、重症者や重症化の恐れのある人以外は原則自宅療養とする方針を決めた。第5波の期間に、自宅療養中や入院調整中に死亡した感染者は250人にのぼった*11 。しかし、厚労省の人口動態統計を見ると、実は第5波のコロナ死者数は相対的には少なく、人々の間でコロナに対する危機感が薄れ始めていた、第8波のピークの2023年1月には、一ヶ月で実に約1万3千人がコロナによって死亡していたのである*12 。
コロナ死者数とインフル死者数 磯野は「面会制限があるから入院させたくない。そんな家族の声が一刻も早く無くなってほしい」というが、実質的な「自宅放置」である自宅療養の中で死亡した多くの人々は、そもそも「入院したくてもできなかった」のであり、その家族は面会制限に不満を持つことすらできなかったのである*13 。
「面会制限に潜む危うさ」を訴える問題の文章の後半で、磯野は「人生の最終段階の医療やケアを事前に家族らと話し合う」取り組みとされる「人生会議」にやはり唐突に触れている。私はこのことにむしろ危うさを感じる。磯野はこう言う。
時間をかけた雑多な会話を通じ、初めて本人が望んでいることが伝わってくる。終末期だけは制限を外す病院もありますが、そもそも誰が終末期を決めるのか。死ぬ間際に突然会って「人生会議」などできるはずがありません。
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「制限」とは文脈から「面会制限」のことなのだろうから、ここで磯野は、病院の面会の少なくとも一つの目的として、終末期が近い入院患者との「人生会議」によって「本人が望んでいること」を読み取ること、を想定している、ということになる。この「人生会議」について、児玉真美はこう言っている。
医療サイドにも患者サイドにも「患者の自己決定権」概念が未成熟な日本で、最近は「共同意思決定」「意思決定支援」が大流行している。「尊厳死」が「良い死に方」として称揚される一方で、ことさらに終末期の医療においてのみ「患者の意思の尊重」が声高に説かれる。専門職が主導して終末期の医療について意思決定を迫るACP(アドバンス・ケア・プラニング)が「人生会議」と称されて行政の肝煎りで強力に推進されていく。
(児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること(ちくま新書)』筑摩書房、2023年、p.163. Kindle 版.)
「共同意思決定」や「意思決定支援」という概念は、もともとは、パターナリズムや一方的な治療中止への反省の議論の先に作られたものだが、「すでに大きな時代の力動が作動している中では」これらの概念も、「「死ぬ/死なせる」方向へと命を押しやっていく力動に回収されかねない」と児玉は言う。そして児玉は、「日本の医療現場に根強い「日本型患者の自己決定の文化」を思えば、ACPにも医療サイドの判断を専門職主導で追認させる手続きとその手続きを踏んだことのアリバイと堕すリスクが大きい*14 」と警鐘を鳴らすのである。
「「死ぬ/死なせる」方向へと命を押しやっていく力動」とは、人々を「死の中に廃棄する rejeter dans la mort(フーコー)*15 」力動であり、結局は「資本」の力動である。例えば「日本維新の会」は、医療費削減を訴える政策提言*16 の中で、あからさまにも「人生会議の法制化(尊厳死法の制定)を進める」と主張している。
医療費が削減される中で、「経済を回すこと」「日常を取り戻すこと」の重要性が強調され、感染症対策が緩和される。そのことでますます「死」に追いやられ「終末期」に近づけられる患者たちは、面会の際の病床においてさえ、終末期における(医療費がかかる)治療やケアを「自己決定」として放棄することを「人生会議」で迫られる。そしてやってきた「終末期」の面会の目的は「死についての学び」に変化する、というのだろうか。私はそれは恐ろしいことだと感じる。