どうも、前回の続きです。
尾高惇忠生家から車を走らせて利根川を渡河、群馬県太田市に入ります。
太田市は新田氏ゆかりの史跡が多く残るので時間の許す限り訪問してきました。
前回はこちら
太田市歴史公園
義重は荘園の名前から新田を名乗り、子孫には鎌倉を攻め滅ぼして後醍醐天皇率いる南朝の忠臣となった新田義貞がいます。
新田荘は当時の記録が現存し、中世の東国荘園の様相を伺うことができる珍しい遺跡です。
新田義貞公像
鎌倉侵攻で稲村ヶ崎に剣を投げ込み海岸を渡って、鎌倉市街地に攻め込んだ伝説をモチーフにした義貞の銅像です。
裏の新田荘歴史資料館は200円で新田荘遺跡の出土品や隣接する長楽寺の品々を見ることができます。
※展示物の撮影は禁止
館内にあった新田義貞に関する遺跡マップ
これ以外にも新田氏支流の岩松氏や大舘氏ゆかりの場所もありましたが時間的に厳しかったので断念。
撮影OKの甲冑
世良田東照宮
寛永21年(1621)創建の東照大権現となった徳川家康を祀る東照宮
建物群は徳川家光による日光東照宮の大改装時に移築されてきたもので、世良田の地に東照宮が建てられたのは徳川氏発祥の地という側面が大きいと言われています。
南御門・下乗札跡
復元された門
真言院井戸
鎌倉期に長楽寺別院として設けられた真言院境内の井戸
真言密教の灌頂と呼ばれる儀式に必要な水として重宝されていました。
法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡
修復中の拝殿
石灯篭
江戸初期から後期にかけて世良田周辺を治めた大名たちが奉納した石灯篭
松平直恒の父で上野前橋藩主松平朝矩
武蔵忍藩主松平忠国
上番所
番人は東照宮周辺の村々から出仕し、この見返りで助郷の課役を免除されていました。
御黒門
江戸期には通常は閉ざされていた門
祭典日以外は門前で参拝、毎年祭典日になると特別に開放されて拝殿下まで入ることができました。
日枝社
長楽寺太鼓門
17世紀中頃の建立
長楽寺三仏堂
慶安4年(1651)、江戸幕府三代将軍徳川家光の命で再建された門
渡月橋と心字池
勅使門
17世紀中頃に建立された世良田東照宮の正門
勅使か幕府上使が参向する時にしか開門されなかった門です。
長楽寺総門
葵の御紋
長楽寺本堂
長楽寺は承久3年(1221)創建の臨済宗の寺院
開山は栄朝、開祖は新田義重四男の得川(世良田)義季で鎌倉~江戸期まで新田氏や徳川家の帰依を受けていました。
新田一族供養塔
開山堂
長楽寺開山の栄朝を祀るお堂
栄朝の墓
長楽寺住職の墓?
新田家累代の墓
得川義季累代の墓
得川義季は長楽寺開祖で、江戸幕府を開いた徳川氏の祖先にあたるとされる人物。
室町期に後裔の世良田親氏が三河国松平郷に流れ着き、後の松平氏の基礎を固めた、というふうに徳川氏が清和源氏の血を引く名門とするように家系図をいじった話があります。
文珠山古墳
世良田館跡
世良田氏の館跡
一部空堀が現存しています。
空堀跡
航空写真
総持寺(新田氏館)
新田氏宗家の館跡とされる場所
正確な主は不明といいますが、新田義重や世良田頼氏、新田義貞といった新田氏当主や一族の実力者が住んでいた可能性は高いとされています。
昭和初期までは周囲に土塁が残っていたそう。
反町薬師(反町館跡)
真言宗の寺院
鎌倉初期に新田氏の居館が置かれ、戦国~安土桃山年間に後北条氏により拡張されました。
寺院の創建は豊臣秀吉による小田原征伐後とされ、江戸中期に現在の位置に移転してきました。
新田義貞居館の推定地
東側堀
土塁
土塁上
南側堀
西側堀
元弘3年(1333)5月8日、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた新田義貞が旗揚げを行った神社
義貞は利根川を渡り武蔵国に侵攻、道中に同じく京で倒幕の挙兵をした足利尊氏次男の義詮と合流して、小手指原や分倍河原などで幕府軍を蹴散らし鎌倉を目指して南下。挙兵から鎌倉侵攻で北条氏を滅ぼすまで約2週間でした。
義貞は利根川を渡り武蔵国に侵攻、道中に同じく京で倒幕の挙兵をした足利尊氏次男の義詮と合流し、小手指原や分倍河原などで幕府軍を蹴散らしつつ鎌倉を目指して鎌倉街道を南下しました。
なお挙兵から鎌倉侵攻で北条氏を滅ぼすまで約2週間でした。
御神木
義貞挙兵時に旗を掲げたという木
社殿
倒幕祈願しました。
新田義貞旗揚塚跡
新田義貞像
鎌倉幕府を滅ぼしてから越前藤島で戦死するまでわずか5年。
色んな意味で上位互換の足利尊氏との対立や、楠木正成や北畠顕家との連携不足、主君の後醍醐天皇に振り回されつつ最期まで東国武士の意地を見せつけ南朝の主力として活躍した義貞は好きです。
次は新田金山城を目指します。