今回も前回に引き続きスカイ・クロラシリーズ『ナ・バ・テア』について記録します。
今回は「大人は不自由か?」というテーマで書いていきます。
前回の記事を読んでいないと全く意味がわからない内容になっているかもしれません。また、スカイ・クロラシリーズを一読していない方も書いてあることがわかりにくいものになっているということをはじめに書いておきます。
大人と子供という観点で何か考えたことがある方は理解できる部分もあるかもしれません。
「生」に目的は必要か
クロラシリーズではよく「自由」という言葉が見られるが、それは主人公の「僕」が考えている自由の概念だ。主人公「僕」はキルドレで地上は「不自由」であると考えている。空に飛んでいるときは地上のどろどろした関係はなく、下に下がれば下がるほど汚れていく。飛ばない大人たちは地上のどろどろとした関係に浸かっており、少なからず汚れている。(地上がなぜどろどろしているのかについては前回書いたので省略します)
私もキルドレの考える「自由」の感覚はわからなくはない。ただ、大人になってしまった私は今この小説を読み返したときに「大人は本当に不自由なのか?」と疑問に思った。確かに不自由である。少なくともキルドレが考える自由の概念を前提にするならば。地上の人間関係、やらなくてはならないこと、社会のルール。これらは全て地上で発生する。戦闘飛行機乗りには発生しない煩わしさである。
前回はキルドレ、クサナギスイトは大人のティーチャに比べて「選択肢」を持たないという話を書いた。クサナギは空に飛ぶことは「自由」であるとしているが、それは空を飛ぶ以外に選択肢を持たないクサナギが大人たちによって「選ばされている」自由であると私は考えた。つまり、自由であるようで不自由なのではないか?ということ。
話の流れでは『ナ・バ・テア』物語後半でクサナギはティーチャと一晩寝て、子供ができる。クサナギは子供をおろすことを考えてティーチャに保証人になってもらうように頼む。ティーチャはクサナギが捨てようと考えた子供を引き取ることを選択する。この一連の流れの中で妙にクサナギがティーチャに対して「おびえている」ように感じるのだ。
クサナギがティーチャと寝たときも自分がどうして今ここでティーチャとこんなことをしているのか、自分がどうしたいのか、なぜそれをしたのか、クサナギ自身よくわかっていない。彼との間に子供ができたときも自分の気持ちをどう運べばいいのか全く理解できていない。
クサナギは、一方的に子供をおろすことを考えているが本当はティーチャに別のことを言いたかったのではないかと思う。なぜなら空を飛ぶ以外に生き方がわからないクサナギがわざわざ「保証人」になってくれるようにティーチャに電話をかけるのは「不自由」ではないかと思うのだ。
クサナギが考える今までの自由の概念とは反対の道を行くような選択をしているように見える。子供をおろすのに保証人が必要だからティーチャにお願いをしたと捉えることもできるが本当にそれだけだろうか?
ティーチャが子供を引き取るという選択をするとはクサナギも考えつかなかったのだろう。もし彼が自分との間にできた子供を引き取るであろうとわかっていたら別の選択肢を考えただろうか?クサナギは自分がティーチャに「大切にされている」なんてことは全く思ってもいなかったし、女として彼に愛されたいという気持は少しはあった(私はあったと考えている)にせよキルドレとしての彼女の「自由」がそれを否定していたのではないかと思える。諦観というもので、自分は「キルドレ」だから大人のようには生きられないという気持ちもあるのではないか。私には彼女のそれが「不自由」に見えるのだが。
「飛ぶために、生まれてきたのだ」とクサナギは自分のことを評する。彼女の目的は美しく自由であること。地上の世界のジメジメとした関係ではなく、自分の命を賭けて空へと上がり純粋な気持ちで闘う。相手を蹴落としたいとかそういう意味ではなく、ただもっと腕を磨きたい、美しく飛びたいというのが彼女の生であり、生きる意味である。こうでないと生きられないと考えている。(きっと、ティーチャと子供のことについて話し合っていれば別の生き方も考えられたはずだ)
それが彼女の生を不自由にしている。人間は生まれてきたことの目的が無いことに嘆きがちであるが、キルドレを見ていると決してそうではないと思える。目的が無いから人間は自由なのではないか?
ティーチャが子供を引き取ったのも、「子供ができたら引き取る」とかそういった目的めいたことは考えていなかったと思う。ただ、そうしたのだと私は思っている。選択することを知っている大人は「こうしなければ生きられない」という強迫観念みたいなのから少しは解放されるのではないか?もちろん地上に重たい枷ができてはしまうが、それを知った上で生きるのと、知らないのに生きるのでは意味が違うと私は考える。(スカイ・イクリプスでティーチャのその後が書かれている。その話は別の機会で書く予定です)
「憧れ」は対等にはなれない
クサナギが大人の女を毛嫌いする理由は自分がなりたくてもなれないものだからかもしれない。
本書ではクサナギがフーコという女に会った際に見せる嫌悪の感情が書かれているシーンがある。フーコは大人の女で、娼館で働いている。(私のイメージの中ではギャル女子)フーコは仕事柄ということもあるだろうが、「女」を武器にした商売をしている。話し方の語尾も「だよぅ」とか妙に可愛い子ぶった言い方。道路に平気で酔いつぶれるくらいにはだらしがない人物。わざとらしいといってもいいかもしれない。いかにもクサナギが嫌いそうな人物。
「女の媚び」というのがあるけれど、それは大人の女が自然に身につけてしまったものであると思う。子供目線からすると、なんでこんなにブリッ子してんのかな?という印象だろう。(私も媚びだけ売ってだらしがない女子が嫌いなので、大人の女のいやらしさみたいなのは理解できる。あざといを身につけるのが女子。いい言葉で表すなら、可愛げ。まあ、私も彼氏の前ではブリっていると他人の目から見たら言われそうだが)それが大人の男を誘惑する一種のスキル(?)であるわけだが、どう転んでもクサナギにはできそうにはないし、やりたくもないだろう。
大人の男であるティーチャに興味はありつつ、その興味をしまいきれないクサナギ。その興味をどう大人の彼に伝えればいいのかもわからないだろう。本書を通じてクサナギは、ティーチャと対等の立場で関わることができていないと私は感じている。(空の上だけは対等なのかもしれないが)それは彼との間にできた子供を一方的におろそうとしたりすることに出ている。クサナギはティーチャが子供をおろすことをのぞんでいるはずだと信じているが、結果はそうではなかった。自分の意図と反する他人の行動に関して癇癪を起しがちだと私はクサナギを見ていて思う。
しかし、他人との関係は自分だけでは完結することはできないのである。
自分が自分自身としてひとりの人間として確立できてはじめて他人と深く関わることができるのだと私は考えている。
だから、「憧れ」だけで他人に道を示してもらっているうちは人間として一人前とは言えないのだと思う。だからクサナギはティーチャと対等には生きられない。少なくとも地上では。
「嘘ばっかりついている草薙水素。」という言葉がある。
飛ぶために生まれて、それ以外のことがつかめないキルドレの天才パイロット。
この軽さが、僕のすべて。
愛するために生まれてきたのではない。
愛されるために生まれてきたのでもない。
ただ、軽く......、
飛ぶために、生まれてきたのだ。
上記の文章はクサナギをそのまま体現していると思う。
カラッとしたような青い空が想い浮かぶ。清々しいがそれでいて少し寂しい。
ティーチャと同じくらいの年齢(おそらく20代後半〜30代前半だと思うが)になった私。昔はクサナギの心がよくわかるような気がしていたが、今ではティーチャの言っていることが少しわかるような気がする。私も大人になったのかもしれない。
ところで「可愛げ」を見せることができるから好きなのか?好きになるから「可愛げ」を見せるのか?これの違いによって大人の女でも違いがあるように思う。