2012.02.23
山形浩生は何を語ってきたか
SF、科学、経済、文化、コンピューターなど幅広い分野で翻訳や評論活動を行う山形浩生さん(47)。大手調査会社の研究員として地域開発にも携わり、貧困国の開発支援をテーマにした翻訳本『貧乏人の経済学』(エスター・デュフロ、アビジット・バナジー著)が近く上梓される予定だ。海外の先端学問を取り入れ、論客としても数々の論争を繰り広げてきた山形氏が、日本の言論空間に残してきたものは何だったのか。荻上チキが鋭く迫った。(構成/宮崎直子)
他人がやらないことを面白がる
荻上 今日は、「山形浩生は何を語ってきたか」というテーマでお話を伺いたいと思います。8年前、ライターの斎藤哲也さんが行った「山形浩生はいかにして作られたか」と題されたインタビューがありましたね。“読者としての山形浩生”が、自身の読書遍歴を振り返るという、とても面白いインタビューでした。
今回は、“書き手としての山形浩生”に、ご自身の著述活動を振り返っていただきたいなと思っております。翻訳や物書きのお仕事をはじめられたいきさつから、あれだけ膨大な翻訳・論評活動を展開するなかで、どういった点を重視して言説を紡いでおられるのか。
山形 「作られたか」のインタビューでも触れたように、ぼくは大学生のころ、SF研究会というところにいまして。当時は「翻訳SF冬の時代」と呼ばれていて、海外のSFはぜんぜん売れないような時代でした。たとえば『スター・ウォーズ』さえも、最初は「惑星大戦争」というタイトルでものすごい小さな扱いで。そこで大学生たちで、自分たちで何かやろうぜといって、いろんな同人活動をしていたんですね。
神田のタトルブックスやお茶の水の丸善に行くと、店頭にSFのペーパーバックのゾッキ本が山ほどあった。そこから適当に面白いものを選んできて、勝手に翻訳して、自分たちのファンジンに載せるというのを延々続けていました。意識的に翻訳をはじめたのはこのころからですね。菊池誠、柳下毅一郎、山岸真、大森望など、今SFで活躍している人たちは、その時代の出身の方が多いですね。
荻上 海外で受容されている作品が、日本で読まれないというギャップがあったその時、翻訳作業によってそれを埋めることが大事なのだ、というような意識ももたれていたのでしょうか?
山形 あんまりそういうのはなかったですね。単純に、「これ面白いのに、何で出てないの?」っていう思いと、仲間うちのライバル意識みたいなものに支えられた活動です。あいつらこんな新しいのを訳していて許せんとか、あいつよりも俺のほうが上手いとか、翻訳の楽しさや面白さが重視されていて、「これを出すべきだ」といった思いは特になかったですね。
荻上 そのころから今に至るまで、山形さん自身の「面白さ」が一番のポイントなんですね。
山形 そうですね。
荻上 でもそれが結果的に、日本の言論の不足しているものを埋めている面もある。言説の方向を変え、「新教養」のラインナップを作り替えてきたわけです。
たとえば具体的には、00年代の日本の評論界隈では、山形さんが訳し続けたローレンス・レッシグが話題になっていました。そのあたりを定本にした「アーキテクチャ論」が多く溢れかえり、『コモンズ』『CODE』などが必読書になっています。
また、00年代は経済学の時代ともいえ、『クルーグマン教授の経済入門』のような入門書、『戦争の経済学』『人でなしの経済理論』などの、経済学的な思考を元に様々な現象を分析する書籍は多く流通しました。
90年代にはまだ残っていた、あえてカントやマルクスを気合入れて読むのが批評の約束事なのだといったムードは、この10年間で大きく様変わりし、もう絶滅危惧種のようになっていますね。「山形訳」という数々の仕事が、その変化にも大きくかかわっていたように思いますが。
山形 でも、意図的にそういうことをやろうと思ってはいなくて、単純に他人がやっていないものを面白がるという、ひねくれ者的なところがあって、それが一番大きいですよね。
たとえば97年にLinuxの本を出したときも、別に「Linuxが世に広まるべきだ」と思ってやっていたわけではなくて、「え、こんなものただで配っていいの? 面白いじゃん」という思いでやっていたら、いつの間にかでっかい話になっていた。
クルーグマンの場合も、実際に自分が仕事をしている上で、経済学のレポートを書くのに非常に役立ったし、経済学ってこの程度の話なのかということをわからせてくれて、面白かった。だから、「みんなもこれを読めば、付け焼き刃しやすくなるよ」と広めようと思ったまで。ここを起点にして経済学ムーブメントを起こしてやろうとかは意識したことはないですよね。
「論争」としての翻訳
荻上 山形さんは要所要所で、いろんな方と激しい論争を繰り広げられていますね。ぼくは学生時代、最初はポストモダン系の議論を面白く読んでいましたが、山形浅田(彰)論争をきっかけに、「ああ、ベーシックな学術書も読まなきゃだめじゃん」と学ばされたものです。
知識人というのはこれまでも、輸入学問的な面が強くあって、それに対して別の翻訳体系をぶつけるという作業そのものが、ひとつの論争行為になってるなぁと思いながら僕は(山形訳を)読んできたんですよね。
山形 自分が面白いと思うときは、世の中でいわれている見方というものに、新しいポイントが付け加えられるときで。でも、それが変な形で紹介されていると、「いやそれは違うんじゃないの」と、ついいいたくなるのはありますね。
幸か不幸か、日本では翻訳者というのは偉そうなことをいえる立場にいます。欧米では翻訳者には著作権すらない、単なる一工程なので状況が違いますが、日本だと「まとめ屋」として、いろんなことをいえてしまう。
荻上 「訳者解説」として、誰よりも先に、文脈付をできるわけですね。
山形 その立場を勝手に利用しているようなところはありますね。『訳者解説』って本も出しましたし。
学術もこれまで、輸入学問に頼ってきたという面もかなり大きくて。単に輸入するだけならぼくのほうが上手くできるという思いはあった。それにこれまでの専門家は自分の砦を死守したがるので、一時流行した見解が否定されはじめても目をつぶったりしますが、ぼくは特定分野の翻訳だけをやってるわけじゃないので、自分が間違っていても「ごめんなさい」といえばそれで済む。返り討ちにあって自分がやばくなる、という配慮をしなくてもいい。半分真面目に受け取られにくい部分にいるがゆえに、いいにくいところもいいやすいというポジションにあるのかも。
荻上 教祖モデルで威張ることが仕事なのだというストロングスタイルをとって、「間違いを認める→ファンを失う→仕事を失う」という焦燥感から、マイナスの方向にアクセルを踏んでしまうケースもありますよね。それでますますドツボにハマるような。
昔も今も「海外ではこれが流行っている」というキーワードは非常に効きますね。それは良し悪しあって、たまたま紹介された翻訳本を特定著者や特定分野の主著として消費し、言論が「ガラパゴス化」するということもある。
山形 それと、アカデミズムのなかで紹介されるのと、一般書として読まれて流通するのとでは、ちょっと違うよね。おそらくレッシグなんかも、ぼくが翻訳をやらなくても、インターネットの法学者が少し訳したりしていました。ただそれが、「インターネットの法学という特定の畑の中に、レッシグという人がいますよー」という形に留まっていたかもしれない。福祉の話でも、大沢真理さんが訳されたエスピン・アンデルセンの『平等と効率の福祉革命——新しい女性の役割』は、誰が訳しても、福祉を学問としてやっている関係者ならば必ず読まなきゃいけないものでしょう。
そういう意味では、大枠では「なんでこれが訳されたのか/訳されなかったのか」ってのは、そんなにないんじゃないかとも思います。それなりに学者は学者で目敏いから、必読書は訳そうと誰かが動く。でも、それをどういう形で世に出していくのかという話ですね。レッシグを法学のなかだけの問題にしていくのか、エスピン・アンデルセンを福祉学のなかだけで留めていいのか、という。
昔の学者は、毎日丸善に行って、いい洋書が入ってきたら全部買いしめて、それをずっと自分のタネにするという感じだった。でもそれは、「これは俺の領域」って宣言してしまう行為でもあって、そのために歪められて、世に広まっていないものも結構あると思います。
荻上 この分野はオレが翻訳するんだ、という。そもそも、翻訳の権利だけとって、全然訳されない、というケースもありますからね。
山形 そういう人たちが「守っている」領域を、一般に向け、どう文脈づけて引き出してくるかですよね。良くも悪くも、どう意味づけるかが重要になるわけです。単にいいものを見つけてきて紹介するというだけならば、みんなやっているから。それを決まった特定の領域ではなく、広い読者に出せるというところに、少しは僕の強みがあるんだろうと思います。
未完成な物のなかに論点が隠れている
荻上 実証的な研究成果をリスペクトし、基本的なデータなどを確認して議論しようという向きは強まっていると僕は思っていて、とてもいいことだと思います。シノドスで編集していると、アカデミズムの世界と論壇・ジャーナリスティックな世界の境界について考えさせられます。
「打席に立たない倫理」みたいなのを持っている学者さんのなかで、優れている人はたくさんいる。執筆依頼する際に、「その点についてはぼくより詳しい人がいる」「その点についてはまだ議論の余地があるので、あとX年くらい経ってから書きたい」みたいな。偉いなぁと思いつつ、ただそれだと、その間は打率ゼロ割のままだよなとも思う。山形訳の著者たちのような、社会に応答する研究者というのも、もっと増えてほしいとも思っています。
そういえば、山形さんは、翻訳はサクサクできるけど、自分自身で物を書くほうはまったく進まない、といったことを書かれていましたね。
山形 そう。翻訳では、「こいつ馬鹿なこといってるな」と思う部分があっても、そのまま訳し続けられるけれど、自分の文章で、「あ、自分は馬鹿なことを書いているな」と気がつくと、考えないといけないなとなるわけです。だからさっきおっしゃったような、学者の方が答えが出るまではなかなか発言できないという気持ちもわかりはするんですよね。
荻上 「100点とれるまで沈黙・我慢する」という倫理観、あるいは「怪我」をしたくないという思いが、いい方向に機能することもたくさんありますからね。だけどその結果、言説が社会に浸透していく速度が遅れる面もある。「30点の状況を60点にするだけでもマシ」と思って行われている仕事に対し、「こことここが不足していて100点ではない」とダメだし側に回り続けるという形になるのも、もったいないなとも。
山形 そうね。惜しいな、と思います。学者の方と話をしてみると、本当にいろんなことを知ってる。じゃあ、知ってるんだったらもっと発言してよ、分かってるんだったらもっと早く教えてくれよ、という話はたくさんありますよね。
震災後の放射能問題でtwitter上で役に立つことをいっていた面々に、早野龍五さんや黒猫先生、菊池誠さんみたいな方々がいましたよね。みんな物理学者。僕は工学部出身ですが、こういうときに工学部が活躍できなくてどうすんだよと、非常にもどかしい思いもありました。「こうすればいいんだよ」って、どうしていえないのかと。
でもやっぱり、自分なりに自信をもって100点をとれるような状態ではないからという考えにしばられてしまったせいか、かえってものがいえなかったりしていた。そこらへんはもうちょっといい加減でもいいから、少しは出してほしかったですね。
ぼくが今まで訳してきたものは、「今すぐに必要」という言説の類ではなくて、むしろ大雑把に、「こんな説もあるらしいよ」ぐらいの話なので、もう少し気楽だと思うんですよね。むしろ、まだいろんなことが決まっていなくて、論争が続いているからこそ面白い、そういう部分も結構あります。そうした曖昧な部分をもっと重視して、公の場で議論を重ねてくれると、分野の発達にもつながるんじゃないかと思います。
未完成な状態で物を出すとか、中途の経過で物を出すということも、それこそ洋書ではたくさんある。参考文献の欄に、未発表論文やワーキングペーパーや草稿がリストアップされていて、そうした段階のものがやたらに出回っているということが非常によくわかります。だから、中途半端でまとまっていない考えでもどんどん出していけるはずなんですね。それに、本来はそこに面白い論点が隠れているものです。
荻上 一歩前にでて、情報発信をしながら提言をしていく人、それでいて「成功」できたような方がロールモデルになるといいなとも思いますが、山形さんが議論をはじめられてからの十数年、状況は変わりましたか?
山形 一部の分野については、ジャーナリストでも研究者でも、ウェブやTwitterでそれなりに発言するようになってきてくれたのはありがたいところではありますよね。経済の分野では刮目すべき論争や啓蒙というのも行われているし。それがタダで読めちゃうわけですから。
情報をどんどん流すという意味では、「道草 http://econdays.net/ 」というサイトを運営している、経済分野で重要な記事をグループ翻訳している人たちがいますよね。非常にありがたい動き。下手でもいいからとりあえず訳そうぜ、そしたらみんなもケチつけてくれるしさ、という感じで。
ぼくの翻訳はなかなかケチつけてくれる人がいなくて、一人で訳しているような状況にあります。それに比べて彼らがグループで活動できるというのは非常にうらやましい。もっと他の分野でもやってほしいですね。
荻上 それこそ、山形さんがやられていた、「プロジェクト杉田玄白」の系譜に位置づけられるような動きですよね。
山形 そうですね。プロジェクト杉田玄白は「大きな作品」というものを考え過ぎてしまったがゆえに、敷居が高いようなところがありました。
荻上 一人ではちょっと厳しいものを、みんなで分担していたと。
山形 それはなかなかうまくいかなくて。でも、「道草」のように記事一つぐらいなら一人で訳すこともできるし、プロジェクト杉田玄白の至らなかったところをちゃんと補ってくれて、立派。
荻上 短い文章のほうが、訳した人の記名を気軽に入れられたりするので、翻訳のインセンティブにもつながるのかもしれませんね。壮大なWikiプロジェクトを構想して、とりあえずページを作ってみたものの、編集者が集まらなくておジャン、みたいなページの残骸は、腐るほどありますしね。
大文字の固有名詞で語る時代は終わった
荻上 最近は、SFの分野などでも、量産されている作品群の中で良質なものを読みなおそう、発掘していこうという動きが続いています。どの分野でも、読むべき本の再紹介みたいなまとめは、「○○がすごい」系のムックから2ちゃんのまとめに至るまで、あれこれ出ていますから。
一方で「衰退」したなと思うのは、「固有名詞」の力ですね。山形さんが翻訳する文章は、固有名詞をあまり重要視しないというか、この人が偉いんだぞという形じゃなくて、この人がいってることが面白いという、あくまで手法を紹介するスタイルをとっているように思います。そのうえで、おかしいなと思った点は、訳者解説でツッコミをいれてしまう。
芹沢一也はかつてのあり方を、「オレの父ちゃん強いんだぞ競争」と呼んでいました(笑)。誰の翻訳者であるのか、どんな大文字の哲学者を「召喚」できるのかという、イタコ芸のような、あるいはカードゲームのような文法がありました。「オレのターン、カント!」「こざかしい、デリダ!」みたいな。最近はそうした文法も見なくなってきた。非常にいいことだと思います。
山形 カントが偉かった時代は2世紀ぐらい続いたんでしょうけど、今、特に発展が著しい分野では、注目すべき学者の入れ替わりも早く、新しいものを追っかけたほうがいい。経済学の場合は、クルーグマンやコーエンなど新しいプレイヤーが次々と出てきて、ちゃんと各分野が競争・発展するようになっている。その一方で、「やっぱりもう一回ケインズ読まなきゃ」とはっと気づいたりするのは面白いところではありますが。
進化生物学や脳科学の分野は、通俗本でも面白い書き手がたくさん出てきていて、その人たちは一線の科学者でもあるんですね。素粒子物理学やM理論の分野では、昔から科学者がいいライターでもあるというケースが非常に多かった。それこそブルーバックス全盛時代がそうでした。
一方で、今、素粒子物理学の世界で「湯川秀樹がかつてこういった」といっても、「それがどうしました」という話になる。ニュートンの本でも、ここは使える、ここは使えないというのは物理学でだいたいもう仕分けされていて、ニュートンそのものを読む必要はなくなってきている。あえて今プリンキピアとかケプラーの話を読むとか、くだらなくて面白いんですけどね。哲学や宗教学でも、二千年経ってもキリストが何をいったという話にはなるし、経済学でもアダムスミスやマルクス、ケインズを振り返ることはもちろんある。でも、だいたいは、使えないから読まれないんですよ。無理して読まなくていい。
ぼくはかつてニューアカデミズムの悪口をいっていましたけれども、何とか先生がこういっている云々じゃなくて、もうちょっと気楽に、そこから自分につながる道を考えてみようよということをいっていたわけですね。そこをおそらく、みんなにありがたがってもらったんじゃないでしょうか。
もちろんそのあとも、デリダがどうしたとか、新しい偉人探しも出てますが、そのご威光というか影響力が続く期間も、昔ほどではない。それは哲学者の役割が昔とは違ってきているせいなのかもしれないし、かつて哲学が担っていた領域を、他のところにもっていかれたせいなのかもしれない。ただ、いろんな考えに対して、じゃあそれは、自分あるいは今いるこの世界にどう関係があるんですか、ということをいえるようになったのは、ぼくの悪口がもたらした良い副作用だと思います。
逃げ道となる分野をもつ
荻上 個別のテーマでしっかりとした処方箋を提示しよう。この動きには長所短所あって、大文字の固有名がない裏返しとして、共通の話題というのが分野間でなくなって、言論の推進力を確保するのに一手間かかるようになっているような気もします。
山形 専門家と論争していてよくあるのが、内容へのレスではなく、「何いってんだコノヤロー、ふざけんじゃねー」という態度を返されることです。ある一つの領域にいると、そこから逃げられなくなるので、ここが違う、変な方向にいっているぞといわれたときに、「はいそうですか」といえない立場に自分を追い込んでしまうようなところがあって。
荻上 「この陣地ではオレ無敵」と振る舞ってしまうと。
山形 そうですね。自分が今までやってきたことを否定されるような感じになってしまうので。だからそれを避けるために一つおすすめしたいのが、マイナーな分野を一つもっておくこと。メジャーなほうでいじめられてこれはつらいと思ったら、少しマイナーなほうに逃げてみて、しばらく時間をおいてみるといい。
ぼく自身も、昔、田中克彦の『チョムスキー』を読んで「これはすごい」と真に受けていたら、あんなのあり得ないよと言語学の人にさんざんいわれて、そのときは反論したりしたんですけれども、しばらく他のことを見て戻ってきてみると、ああ確かにあいつらのいう通りだったと思ったりした。
経済関係で途上国援助の話をするときも、以前は「もっと市場にがんがん任せりゃいいんだよ」みたいな話が主流で、ぼくもそう思っていた時期があった。でも、しばらく日本や途上国の状況を見てみると、「市場だけではつらいかも」と客観的にわかるようになり、自分の不十分さが見えてくる。
ぼくの批判の仕方は、いきなり正面から木刀で殴りつけるような真似をするからダメだというふうによくいわれます。確かに、「こういうのがあるんじゃないですか」ともう少し優しく指摘して、「ああそういえば」と相手が自分で気がついたようなふりをできる余裕を与えてあげると、もっと円満に話が進むんですけどね。でもそれだと、読んでいる人が面白くないと思うので、木刀で殴ってしまう(笑)。
まったく違う興味でやってきたことがいつか重なるという経験はかなりあります。たとえば、ぼくがLinuxの本を訳したのは、単にパソコンおたくでUNIXをただで使えるなんてすごいじゃんと思っていたからなんですが、一方でそれとはまったく違う興味で経済をやっていたら、いつの間にか2つが融合して「インターネットの経済学」というテーマが生まれていた。あるいは、レヴィ・ストロースがいっていることと同じようなことが、別の分野でもいわれていることにある日気がつく。
違う方面から攻めているものと交わったときに、もう一段普遍性のあるネタだとわかるような場面は多々あります。他の分野に目配りしておくと、生産的に話を広げやすくするための一つの糸口にもなると思いますね。他の分野から学ぶこともあるし、関心領域も広がるからメインの活動にも役立つし、精神的にもいい(笑)。
貧乏人に耳を傾ける
荻上 開発支援の話は、「市場に100%任せておけ」という話も批判される一方で、ウィリアム・イースタリーが批判するように、「ビッグプラン」を思い描いてODAをじゃぶじゃぶやっても、現地でニーズの全くない箱モノばかりに消費されては意味がない、そんな市場ニーズ無視な「傲慢な援助」じゃだめだというような批判的検証も重要です。「設計主義100% vs市場主義100%」という構図そのものが、現実的な支援の場では通用しない。
山形さんは普段は会社員として、途上国開発支援や調査にかかわり、途上国の市場をいかにブーストしていくのかというのをリアルで体感されていますね。開発経済学の分野は傍から見ていると、「総論」部分はおそらくある程度の段階で止まっていて、個別の方法論をいかにシェアするかが重要視されている段階とも見られるのですが。
山形 実はまさに来月、翻訳したての『貧乏人の経済学: 貧困削減をもういちど根っこから考える』という本を出版します。開発経済学および経済学全般でも次世代のホープと呼ばれている、エスター・デュフロとアビジット・バナジーの共著本で、開発支援がテーマになっています。
ジェフリー・サックスのように、どーんと援助して一気に貧困から脱出してやれば、あとは彼らが自力で立ち上がっていきますよと考える人たちと、ウィリアム・イースタリーの批判のように、形だけどーんと援助すると、むしろみんなやる気をなくすからだめだと考える人たちと、両極端の主張がある。しかし、大きな話のなかでいいとか悪いとかいっていても仕方がないから、個別のケースを見て何が効くのかを考えていこうという話を延々としています。
たとえば、貧乏な人はお金がないのになかなか貯金をしません。お金が貯まらないから物が買えないので、貧困から脱出できないという悪循環に入る。
そこで、援助一発どーん、な考え方の人は、「貧乏人でも簡単に使える銀行口座を補助金でつくったら、みんな貯金するようになるよ」って話をする。それに対して、個別のケースを見る人たちは、「貧乏人には貯蓄できないいろんな理由があるんだから、そんなでっかい口座をつくっても無駄だよ」と反論して、実際にいろんな人の貯金口座を調査するんですね。すると、貯金したいと思っていてもできない様々なケースが浮かび上がってくる。
たとえば貯金してお金をためて、それで肥料を買って畑に使ったら、収穫が増えてもっとお金が稼げるはず。だけど、なかなかそれができなのはなぜなのか。肥料が必要になるのは次の作付けのときなので、それまでに宴会があったりして、ちょっとずつお金を使っているうちになくなってしまう。でも彼らはみんな、貯金の必要は知っている。けれど、なんとなくできない。これは先進国に住む我々がダイエットに失敗するのと全く同じ理由で、大きな目標は知っているんだけれども、目先の誘惑には弱いという性質に起因していると。
ならば、それに対抗するような貯蓄の方式を考えてあげる必要があることがわかる。ということで、たとえば入金しやすいが引き出し手数料は高くつくというような貯蓄口座を提案するとか、いろんな例を山ほど出してくる。大きな問題として1か0かで議論をしても仕方なくて、結局は、個々の状況を見て、そこで働く細かい人間の心理も汲んだうえで、効果のでる対応をしないとうまくいかない。それを先進国の人たちは「貧乏人を甘やかすんじゃない」とか、「連中は根性がないからできないんだ」と好き放題いいますが、むしろ先進国の我々だって根性なんてないでしょ(笑)。
荻上 根性なくてもそこそこ生きていける社会をつくってきたわけですからね。
山形 会社に勤めていれば、黙っていても保険料が給料から天引きされる仕組みがある。だから我々はちゃんと保険の備えができているのであって、それらを全部自分でやれとかいわれても、やらないわけ。援助の世界も同じ。ただ、個別の例を見るのは面白いけれども、大きな話ができないというのは、かっこいいことがいいにくくなる分、面倒ではあります。
荻上 だからこそついつい「ビッグプラン」を語りたくもなる。いや、実際「大きな話」をすることで、「物語にお金を出す層」に響くという面はあるかもしれない。逆によかれと思って丁寧に透明化して細かく見ていこうという言説を強化すると、援助の額が減ってしまうのかもしれない。個別性ばかり見ているとそうした部分を軽視してしまうような部分もあるので注意が必要だし、共感に訴えていく手法というのもまた必要にはなってくるわけですね。子供たちが何人救えますよとか。
大きな倫理性の話と、社会工学的にこれが効く、あれが効くという話、二足のわらじを同時に履き続ける書き手が、これからは各分野で求められてきます。価値論争も、効果測定も、どちらも大事。そのあたりを調節するような論争のプラットフォームがますます必要になってきますね。
ゲーミフィケーションの可能性
山形 特に震災直後、あなたたちの上世代にあたる知識人の振る舞いを見て、やはり空理空論だけの世界ではつらいのかなという感じはしますね。文字通り地面が揺らいでしまって、理念だけでいろんなものにしがみつくには限界がきてしまった。自分なりのフィールドがあればパニック状態でもちゃんとしたことはいえますが、そうでない人たちがみんな一億総懺悔ムードに入ってしまったのは、がっかりしたというのが正直な感想です。
荻上 コミュニケーターであり、しっかりとした専門家でもあるというのが今求められているかなと思いますね。山形さんが日本で注目している若手の書き手はいますか。
山形 電子マネーを研究している鈴木健さんや、『アーキテクチャの生態系』を書いた濱野智史さんなんかは面白いと思いますね。あとは「PostPet」をつくったメディアアーティストの八谷和彦さんとか。震災の際も、放射線の計測をちゃんと考えようと、youtubeに動画を投稿したりしてましたね。
抽象的なものをつくるんじゃなくて、具体的に他人に意味のわかるようなものにまとめあげるということをずっとやってきた人で、震災以降の活動もフットワークが軽くていいですよね。あるものを面白く見せるという手法でいえば、菊池誠さんがやっていたような放射能の測り方講習もよかったと思います。
荻上 放射能の測り方は、漫画にもなりましたね。最近「ゲーミフィケーション」という言葉がバズっています。行動経済学などの発想とも近く、遊びの快楽性を導入することにより、「特定の目標を伴う行動」を引き出しやすくしようとするアプローチ。言論活動においても、多くの人に伝えるため、そして多くの人に特定の視点を埋め込むために、ゲーム性に注目したり、ゲーム性そのものを導入したりといった活動を、特に注視されているような印象ですね。
山形 そうですね。もちろん、「すべてがゲーム化できるわけじゃないよ」とくさしたい誘惑もありますが、想像以上にいろんなことがゲーム化できてしまっている。たとえば、ゲームでこつこつ学校に通って、彼女に気に入られるポイントを貯めるなんていうくだらない行為でも、みんな喜んでやっていますよね。初音ミクがネギを振るとか、その程度の話であってもいい。
思っていることを形にして、そこからフィードバックを得るというのは、いろんなところで進めていくべきだと思います。ゲーミフィケーションの一つのポイントは、それがゲームであるということもさることながら、やってみたらそれに対するリアクションが必ずあって、つまらないことでも最終的な報酬が見えやすくなっているということです。その面白さを上手く使って、いろんなところで具体的な確認をしつつ先に進むというのが理想ですね。そういうのを取り込んでいる活動が、若手のものでも好きだなと。
現場をどう切り取っていくか
荻上 山形さんが本業でやられているような調査と実践というのは、守秘義務などで公開できないものもあったりするんでしょうか。
山形 開発援助にかんしては、公のお金でやってるので、最終結果の守秘義務はないです。基本報告書はJICAの図書館にいって読めます。もちろんそれをやってる最中に、「次は◯◯省でこういうことをやるらしい」といったことはいえませんが、少なくともこんな方針で援助しましょうとか、この援助国ではこんな汚職が問題になっているとか、そういう話はできます。
荻上 であれば、ぜひ、山形さん自身による開発支援論というのも読んでみたいんですね。被災地支援もそうですけど、「ダメ支援」「ムダ支援」「イイ支援」というのはそれぞれありますから、失敗学と成功学を積み重ねていかなくてはならないと思うので。今後、そうしたお仕事をされる予定はあるのでしょうか。
山形 いろいろアイデアも出てくるし、依頼もいただくんだけれど、やっぱりもう少し手早くやらなければいけないですよね。以前やろうと思っていたファイナンスの入門書も、書きはじめた1990年代だったら通用したんですけれども、はっと気がつくとリーマンショックが起きて、昔は万能と思われていた株式市場の価値評価(バリュエーション)だって全然信用できないというのが露になってしまい、今だと株式市場を信頼しきった入門書ではつらい。面白いネタはその都度いろいろあっても、なんだかどんどんタイミングを逸していきます(笑)。
荻上 足が早すぎるタイムリーなテーマに取り組んでいるから、という感じですかね。
山形 他のことに手を出し過ぎているというのもあります。
荻上 一年経つとがらりと風景が変わってしまうテーマは、本にするのに迷うところもありますよね。ルポや報告書などの別の発表形式のほうが向いている場合も。タイムリーなエッセイになるか、数十年スパンの本に偏ってしまって、5年、10年単位の本が出にくい事情もあるのかもしれない。忙しい人は書けない、書く暇があるやつは現場を知らないといった非対称性を埋めるというのはなかなか難しいのかなという気がします。
山形 そうですね。その点は『ヤバい経済学』みたいに、ジャーナリストと学者の組み合わせみたいなものが、もっと上手く機能するようになるといいのかもしれませんね。『貧乏人の経済学』もそれに近いけど、そういう成果をもっともっと読みたいな、と思っています。
(2012年2月6日丸の内にて収録)