2023.09.29
武力による平和維持? 集団安全保障の原案再考、1914-15
序論とアプローチ
第一次世界大戦後の1920年、戦争防止のための初の国際機構として、国際連盟が設立された。現在の国際連合の前身であるこの国際連盟において、はじめて戦争が国際法上で規制され、集団安全保障〔注1〕が導入されることとなった。戦争防止システムとしての集団安全保障の考えは、イギリスの研究グループであるブライス・グループが1914-5年にかけて作成した国際連盟草案「戦争回避のための提案」において、最初に示されたものである。この「提案」が基礎となって、英米を中心とした国際連盟運動が展開したのみならず、1918年には英外務省の連盟研究報告書が作成され、さらに戦後のパリ講和会議において国際連盟規約が議論されることとなった。〔注2〕
これまでの大部分の研究において、ブライス・グループらの国際連盟推進派は、国際関係の現実を知らない理想主義者とみなされてきた。〔注3〕一方で、グループの「提案」に注目した研究では、世界国家や連邦が提唱されていないことなどを挙げ、彼らの国際連盟案は限定的で現実主義的な思考の産物とするものがほとんどであった。〔注4〕しかしいずれの研究でも、「提案」の内部論理や、その起草の裏での議論ついてはほとんど取り上げられていない。そのためここでは、「提案」の起草過程を詳細に検討し、現在では集団安全保障と呼ばれる戦争防止システムをめぐるグループ内での議論と意見の対立を明らかにする。
ブライス・グループの議論を検討する前に、国際関係論の分野において「理想主義」と「現実主義」という二つのラベルがどのように生まれたかを再確認しておきたい。これらの用語が国際関係の文脈ではじめて使われたのは、英歴史家E・H・カーの「危機の20年(1939)」においてであった。カーによる二つの用語の定義は必ずしも統一されていなかったものの、現在まで広く受け入れられている説明では、現実主義者は国際政治における理想や道徳よりも、軍事力や現実政治などの力の役割を重視する人々であるとされる。一方、理想主義者は、道徳や世論の力を重んじ、抵抗のために武力を行使することを悪とする人々としばしば捉えられてきた。〔注5〕カーの描く戦間期の国際関係は、現実主義者と理想主義者のあいだの論争として、国際関係理論や歴史学に大きな影響を与えたといえる。この二つの概念は、国際関係論の教科書において、古典的な二項対立とされてきた。〔注6〕
しかし実は、カー自身がこの二項対立をとりあげた真の意図は、主義を攻撃することではなく、むしろ、現実主義と理想主義の微妙なバランスを維持することにあった。なぜならば、カーいわく「健全な政治思想は、ユートピアと現実の両方の要素に基づいていなければならない」からである。カーは、政治的状況へのどのような対応においても、理想主義的な考えと現実主義的な考えは「分離不可能なほどに混ざり合って」いるため、どちらも無視されるべきでないと論じた。〔注7〕
このような立場は、歴史家にも有益な出発点を提供するといえる。ブライス・グループの史料を分析すると、集団安全保障に関する初期の議論も同様に、単純化された分類には当てはまらないことがわかる。伝統的に現実主義的視点とされてきたものが、国際関係学で理想主義的とみなされる考えに依拠し、そして理想主義的とされる視点が現実主義的と思われる考えに基づいており、その両者が互いに排除することなく成立していたのである。つまり、現実主義的考えと理想主義的考えの両者が、補完的な形で複雑に絡み合っていたのであった。
「理想主義的」な考えと「現実主義的」な考えの共生については、議論の結論ではなく、出発点であるべきであることに留意されたい。なぜなら、グループの初期の議論を分析すると、その戦争防止計画のいくつかの部分が論理的に矛盾していることがわかるからである。グループは、実際的な計画を目指したが、国際機構や世論が段階的に進歩していくといった当時の自由国際主義的な信念にも根本的に依拠していた。またメンバーら自身も、平和のために最終的には武力の行使を必要とすることなど、自分たちの戦争防止計画の欠陥や矛盾を自覚していた。しかし彼らは、「現実主義的」な意見と「理想主義的」な意見とのバランスをとるための、首尾一貫した解決策の提供には至らなかったといえる。ブライス・グループが抱えた集団安全保障の生来の弱点と永続するジレンマは、国際連盟・国際連合の設立において解決されることはなく、今日まで問題であり続けている。
国際連盟計画における戦争防止策
ブライス・グループは、1914年8月、第一次世界大戦の勃発を受けてイギリスのリベラル派の知識人、政治家、ジャーナリストらによって結成された。主要メンバーは、ケンブリッジ大学の古典学者G・ローズ・ディキンソン、元駐米英国大使で国際法の専門家であるジェイムズ・ブライス、どちらも自由党議員のウィロビー・H・ディキンソンとアーサー・ポンソンビー、弁護士のリチャード・クロス、政治学者のグラハム・ウォラス、そして経済学者のジョン・A・ホブソンであった。開戦当時、英国の参戦を支持するメンバーもいれば、断固として反対するメンバーもいた。しかし彼らは、意見の相違はあっても、基本的な価値観を共有し、なによりも将来再びの戦争を防止するという共通の目標を持っていたといえる。
ブライス・グループが戦争の主要原因と考えたのは、勢力均衡に基づく既存のヨーロッパ体制であった。「平和を維持する最善の方法は戦争の準備である」とするこの旧体制の考えのもとで、軍拡競争や同盟間の対立の激化が引き起こされ、最終的には大規模な戦争に発展したのである。そのため、メンバーらは、対立する二つの軍事同盟に基づく体制は終焉を迎えるべきであるという意見で一致していた。彼らは、終戦までに旧体制に代わる新国際秩序の青写真が提示されなければ、パワーバランスは元に戻り、再び大戦争を引き起こすだろうと考えたのである。
戦後の新国際体制における戦争防止策として、ブライス・グループは、相互に関連する四つの方策―国際紛争の司法的解決・調停理事会の設立・敵対行為のモラトリアム・集団安全保障―を提示した。第一に、紛争の司法的解決のために、戦後国際機構の加盟国は事案を既存のハーグ裁判所に提出することとした。第二に、外交的手段で解決できない紛争の調停等については、調停理事会で審議されることが提示された。第三の措置は、戦争勃発前の危機の最中において敵対行為を一時停止するもので、「冷却期間」と呼ばれた。加盟国は、裁判所や理事会に事案を提出する前、そして理事会の報告書公表後の6カ月以内は敵対行為に訴えないこととされた。最後に、第四の措置である集団安全保障は、「提案」において以下のように規定された:
18. すべての署名国は、いずれかの署名国が、仲裁裁判所もしくは調停理事会に事案を提出することなく、また所定の遅延期間が満了する前に、他の署名国に対して敵対行為に訴えた場合、署名国の過半数の判断により最も有効かつ状況に適合するような外交、経済または軍事的な集団的措置によって、攻撃を受けた国を支援する。
19.いずれかの国が理事会の報告書に含まれる勧告を受け入れず、かつこれを実施しなかった場合、署名国は協調して、そのような失敗のために生じた状況およびその勧告を実施するためにとるべき集団的措置を検討する。〔注8〕
このように、集団安全保障は、戦争防止のための四つの方策の一つであり、他の三つを尽くしたときにはじめて検討されるものであったが、その集団行動に武力行使を含めるべきか否かという激しい議論をグループ内で引き起こした。
武力制裁をめぐる対立意見
ブライス・グループのメンバーのほとんどは、程度の差こそあれ、戦争防止のために集団で武力制裁を行うという、集団安全保障の導入に同意した。彼らは、伝統的に国際関係論で「現実主義的」とされる観点から、平和維持のために武力が必要であると判断していたのである。グループの会合で、はじめて集団安全保障について提起したクロスは、緊急時に連盟が攻撃に対抗することができるように、加盟国が相互に助け合うことを義務付けるべきだと主張した。ホブソンも同意し、国際社会には他の社会と同様にある種の警察組織が必要であり、効果的な機構にするためには武力制裁は必須であると論じた。ブライスがいうように、武力制裁は、それなしでは(国際連盟案)全体が無意味で効果的でなくなってしまうほど、必要不可欠と考えられていたのである。〔注9〕
グループ内で武力行使に強く反対したのは、ポンソンビーであった。彼の反論は、従来の国際関係理論の視点からは一見「理想主義的」にみえるかもしれない。しかし、その内容を分析すると、それが非常に実際的でかつ「現実主義的」なものであったということがわかる。
まずポンソンビーは、武力制裁の問題点として、その非現実性を指摘した。グループの案では、武力制裁は平和的な解決を試みたあとにのみ実施可能とされたが、彼はそもそも仲裁による解決が可能な問題は、深刻で危険なものではないと強調した。もし両当事国がただちに準備を進め、冷却期間前に戦争をはじめるような場合には、不介入が戦争制限のための唯一の解決策となる。なぜならば、戦争になった場合、当事者双方が自分たちの正当性を主張し、即座に侵略国を特定することは困難になりうるからである。〔注10〕ポンソンビーは18世紀の国際法学者ヴァッテルの主張にならい、以下のように論じた:
国際協定違反の責任を負う国の行動は、必ずしも不名誉でかつ攻撃的な動機からではなく、多くの場合、協定の厳格な遵守から生じる国家の危機が、協定違反に関わる悪を凌駕するという判断から起こる。〔注11〕
ポンソンビーは、関係国の目的や事情を個別に判断しない限り、義務的な集団制裁は将来の平和維持に不利になりうると断言した。
第二に、ポンソンビーは、武力制裁は「戦争によって平和を守る」ことを意味し、各々の紛争において公平な審議が行われる可能性を破壊しうるとした。理事会がつねに全会一致するとは限らないと指摘したうえで、ポンソンビーは、集団的武力行使は「(連盟の)理事会の分裂、多数派と少数派の発生、権力のグループ化、同盟の形成、そしてあらゆる旧弊の永続化」〔注12〕につながると宣告した。強制的な軍事行動は、「すべての戦争をヨーロッパ大の戦争にする新たな方法」〔注13〕を生み出し、普遍的な軍縮を永遠に妨げることになる、と彼は結論づけたのである。
第三に、ポンソンビーは、武力は道徳に対立するものであり、国際法および新たな国際秩序の道徳的基盤・権威を破壊するものであると論じた。彼は、国際関係は、物理的な力でなく道徳的権威に支えられることによって耐久性のあるものとなるとし、道徳こそがその基礎となるべきであると強調した。〔注14〕つまりポンソンビーは、武力による威嚇によって強制される消極的平和と、道徳的権威に基づく積極的平和を区別していたのである。このように、彼の武力行使の否定と国際道徳の主張は、国際関係学で従来定義されてきたような「理想主義的」立場の実質的な証拠とはなりえない。かわりにポンソンビーの議論が示すのは、彼の武力行使への反論が、国際秩序における政治・戦争・道徳の複雑な関係に関する「現実主義的」な視点を反映していたということである。
ポンソンビーの意見は「提案」には盛り込まれなかったものの、他のメンバーらの共感を呼んだ。たとえばブライスは、それが「非常に重みのある論点で、私が見たなかで最も強力な武力行使への反対意見であり、個人的にはその大部分に同意する。大国がこのような(武力制裁を伴う)計画を採用する見込みはほとんどなく、採用したとしても彼らがそれを実行すると信頼できる見込みもあまりない」〔注15〕と書いている。G・L・ディキンソンもポンソンビーに同意し、道徳こそが新体制が依拠すべき最も重要かつ効果的な方策の一つであるとしていた。〔注16〕グループのメンバーらは、道徳を重要視しつつも、「提案」に盛り込むにはあまりにも「理想主義的」であると考えていたといえる。彼らは、国際機構には、平和を強制するための武力などの「現実主義的」手段が必要であると判断したのである。
「現実主義的」な戦後構想
ブライス・グループは、国際連盟の創設が実現するためには、その構想が「現実主義的」でなければならないと考えていた。とくに彼らは、その創設は、政治家が戦後機構の価値と実現可能性を認め、採用するかどうかにかかっているとした。そのため彼らは、連盟構想は、まったく新しいものではなく、既存の国際システムとの連続性を保つものであると強調したのである。「提案」の序文で宣言しているように、彼らは国際関係の抜本的改革を示しつつも、歴史的発展の過程から大きく逸脱することのない計画を目指していたといえる。〔注17〕
また、グループのメンバーらは、戦争が終わっても、彼らが戦争原因とした戦前の同盟を反映した形での勝者・敗者間の敵対という遺産が残ると予測していた。そのため、彼らが重視したのは、集団安全保障の新しいシステムのもとで、大国をこれまでの二つではなく、一つのグループに統合することであった。G・L・ディキンソンは、経済学者E・カナンへの手紙の中で、この考えを「雪玉」の比喩で説明している:
(雪玉は)簡単に「丸まら」ず、この戦争の前のように、二つの対立する雪玉のままかもしれない。即座に大きな雪玉を作る方が、希望が持てるのではないかと私は思う。〔注18〕
グループの国際連盟構想は、ある国々が他の国々に対抗するものではなく、共通の利益のためにできるだけ多くの国が連合するものであった。そうでなければ、再び勢力均衡システムのもとで、軍事同盟による抗争が巻き起こる危険性があるとした。戦後の国家間の分裂を克服するために、彼らは、列強の国々が加盟する一つの強力な連盟が、徐々に普遍的な機構へと発展することを期待したのである。
「理想主義的」な世論への期待
こうした「現実主義的」な視点と同時に、グループの戦後構想は、「理想主義的」な考えにも依拠していた。その「理想主義的」な部分は、「提案」には明記されていないもう一つの戦争防止策―世論―に集約されていたといえる。モンテスキュー、ルソー、カントといった啓蒙思想家らの伝統を受け継ぎ、グループは、過去の戦争はヨーロッパの政府を支配してきた王朝や貴族のエリートたちの好戦的野心に起因しているとした。もし、政府の支配から解放された人々が自由に選択できるならば、彼らは戦争の悲惨な犠牲を避け、平和を選ぶであろう。したがって、もし世論が平和のために動員されるならば、それは強力な戦争防止メカニズムとして機能するはずだと考えられていたのである。〔注19〕
しかし同時にメンバーらは、当時の世論は平和的役割を果たすどころか、進行中の戦争の和平条件を議論する準備すらできていないと考えていた。彼らによれば、平和的な新秩序は、世論が戦争を防止できるように十分に指導され、教育されたヨーロッパに築かれるべきなのであった。そのため、国際的な道徳の水準を上げ、将来の戦争を防止するためには、まず世論を教育する必要があるとされたのである。ブライスが「提案」で示したように、将来の平和の第一歩として国際連盟が設立されるならば、世論が十分に教育され、平和的な意見を表明できるようになるための時間を確保できると考えられていたのである。
「提案」の戦争防止機能において、グループのメンバーらは、冷却期間、つまり調停理事会に事案が提出されてから、集団安全保障の制裁行為を実施するまでのあいだのモラトリアム期間において、世論が戦争防止の役割を果たすことを期待した。彼らは、冷却期間は、意思決定者と人々に、目前の戦争の危険性とそのコストについて冷静に考える時間を与えると信じていたのである。また、メンバーらのような知識人らに、「平和を支持する世界世論」に訴えかける時間を与えるとも制裁を考えていた。この想定はまた、彼らの「提案」において、世論が集団的武力行使を防ぐ役割を果たしうるという意味を含んでいた。つまり、冷却期間中に世論が戦争に反対し、戦争を止めることに成功すれば、戦争防止策は、他の三つの措置を使い果たしてはじめて実行されうる集団安全保障という段階には至らないということであった。
前述のように、ブライス・グループは、集団安全保障には戦争をエスカレートさせる危険性があり、武力制裁については大国間で意見が対立しうると考えていた。そのため、制裁実施の前に戦争を防ぐことができれば、軍事行動を開始するよりも安全で確実であるとしたのである。事実、このような想定は、世論が徐々に発展し、やがて戦争を防ぐ強力な手段になるという、当時の自由国際主義者の進歩に関する信念に基づくものであった。連盟は、はじめは集団的軍事力を必要とするが、ひとたび国際的道徳が発達すれば、根本的には世論の力に依拠する機構へと発展する。それによって、将来の戦争防止メカニズムにおいては、集団的武力制裁の危険性は次第に問題ではなくなるだろうとしたのである。もちろん、ブライス・グループは、世論を教育するには時間がかかること、そして世論の力のみでは戦争を回避できないことを理解していた。そのため、グループは、集団安全保障を「提案」に盛り込んだが、それはあくまで他のすべての策が尽きたときの最終手段であったといえる。このように、グループの議論は、当時の国際情勢に対する「現実主義的」な見解と、道徳の進歩に対しての「理想主義的」な期待とを統合したものであり、それが「提案」の戦争防止計画の中枢部分を成していたのである。
おわりに
実際のところ、ブライス・グループのメンバーらは、戦争防止のための「現実主義的」な対策と「理想主義的」な対策の両方の欠点と、それらが混ざり合うことでもたらされる曖昧さについて認識していた。それでも彼らは、その弱点への解決策を考案することなく、両者を融合させた。それは、カーが「健全な政治思想」として評価したように、二つのあいだのバランスを維持しようとする試みであったといえる。〔注20〕しかし、そのバランスは、良くても極めて微妙なものであり、非常に不安定なものでもあった。グループのメンバーは、集団的軍事力は、戦争を拡大させる危険性があるにしても、必要不可欠であると同意していた。また彼らは、世論が戦争を防ぐことを期待していたが、適切な教育の欠如のために、逆に好戦的な人々が増加する可能性も認めていた。国際連盟における集団安全保障体制は戦間期の国際秩序の崩壊に対処できず、第二次大戦の発生に至った。それは初期の自由国際主義の信用を失墜させ、第二次世界大戦後以降に展開した今日の国際関係理論における現実主義と理想主義の二分化に大きな役割を果たすこととなる。1930年代には、ブライス・グループが懸念していたとおり、理想主義的観点から国際秩序を支えると期待された国際世論はすぐには発達せず、現実主義的観点から支持された軍事的集団行動は、その実効性の問題点を露呈した。ブライス・グループの議論が示したように、現実主義と理想主義のバランスをとることは、どの時代においても非常に困難であるといえよう。それでも、カーが指摘したように、一方のみに基づくことなく、両者を吟味して意思決定することが、現代の国際関係でも求められるのではないだろうか。
〔注1〕国際連盟・国際連合で採用された平和維持のための国際的システムのこと。
〔注2〕Sakiko Kaiga, Britain and the Intellectual Origins of the League of Nations, 1914-19 (Cambridge University Press, 2021).
〔注3〕E. H. Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (Macmillan, 2001); Martin Ceadel, Thinking about Peace and War (Oxford University Press, 1987); Paul Laity, The British Peace Movement, 1870-1914 (Oxford University Press, 2001).
〔注4〕Henry R. Winkler, The League of Nations Movement in Great Britain, 1914-1919 (Rutgers University Press, 1952), pp. 18-20; George. W. Egerton, Great Britain and the Creation of the League of Nations: Strategy, Politics, and International Organization, 1914 -1919 (Scolar Press, 1978), p. 10.
〔注5〕Carr, Twenty Years’ Crisis, pp. 92-3, 102; Peter Wilson, The International Theory of Leonard Woolf: A Study in Twentieth-Century Idealism (Palgrave Macmillan, 2003), p. 20; Chris Brown and Kirsten Ainley, Understanding International Relations (Palgrave Macmillan, 2009), pp. 18-26.
〔注6〕Tim Dunne, Milja Kurki and Steve Smith (eds.), International Relations Theories: Discipline and Diversity (Oxford University Press, 2013); Steven C. Roach, Martin Griffiths and Terry O’Callaghan, International Relations: The Key Concepts (Routledge, 2013).
〔注7〕Carr, The Twenty Years’ Crisis, p. 87-8, 92.
〔注8〕Kaiga, Britain and the Intellectual Origins of the League of Nations, p. 49.
〔注9〕前掲書、p. 51.
〔注10〕前掲書、p. 52.
〔注11〕前掲書。
〔注12〕前掲書、p. 53.
〔注13〕前掲書。
〔注14〕前掲書。
〔注15〕前掲書、p. 54.
〔注16〕前掲書。
〔注17〕前掲書、p. 56.
〔注18〕前掲書、p. 58.
〔注19〕Michael Howard, War and the Liberal Conscience (Oxford University Press, 2008), pp. 13-5.
〔注20〕Carr, The Twenty Years’ Crisis, pp. 10, 14, 87.