『SIGMA fp』を購入した理由は「カメラの終わりと始まりの狭間にある歴史的カメラだから」
題名通りなのだが、『SIGMA fp』を購入した。
LeicaM3から始まって、LeicaR8、そして中判フィルムカメラ「プラウベルマキナ67」と来て「SIGMA fp」。
この一年内で僕の防湿庫はすごいことになってきたが、真面目に写真とはなにか?を考えた上での散財=思考実験だったわけだ。
カメラを真面目に考え直すと、現在のカメラの置かれている状況と、撮影行為自体の転換点にいるという状況、そしてSIGMA fpを買わざるを得ない状況が峻別できた。
では、なぜfpを買うのか。
今回はカメラとは?写真とは?という壮大なテーマを紐解くことで、実はfpを買っちゃった永い言い訳だったりする独り言を書いてみようと思う。
追記
濱崎鉄人 × SIGMA fp fpにLeicaレンズをつける理由
この記事がきっかけで、SIGMAさんの公式チャンネルで動画を作っていただきました。
よろしければご覧ください。
- カメラのオワコン化は天啓か?
- 自己認識のための自己表現
- カメラの機能は「記録」と「表現」
- カメラの終わりと始まりの狭間
- 『SIGMA fp』とはカメラの始まりの象徴?
- 結論『SIGMA fp』とは何か?
- 作例
カメラのオワコン化は天啓か?
最近、脳内デフラグはnoteへ吐き出すことにしており、ブログを書くのは久しぶりだ。
noteで「カメラがオワコン化する未来」というのを、ほろ酔い気分で書いてみた。
決して、カメラ=オワコン化=終了!という意味ではなく、撮影という概念が変わる転換点にいるという話だ。
まとめると、
・カメラはスマートフォンにより『記録』という機能のシェアを完全に奪われた。
・これによりカメラ業界はスマホを凌駕すべくスペック競争をしているが、これはスマホへの妥協を促すだけでしかない。
・これから記録は、8Kとか16Kで常時動画記録してAIが選んでくれたシーンを写真にしてくれるようになる。AIがプロ並みの構図でフォトショ現像してくれる。
・一般的に写真とは動画のスクリーンショット化する。
・するとカメラは市場経済の表舞台から消え、いわゆるオワコン化する。
しかし、オワコン化とは主流から落ちることであり、息絶えるという意味ではない。
さらにカメラが持つもう一つの機能『表現』は、カメラの存在価値を維持し続けるだろう。
シャッターボタンがある限り、そこに主体性が存在するからだ。
これは中平卓馬や森山大道が苦悩した問題を、現代にアンチテーゼとして甦させる。
彼らは当時の主流であった土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」を否定する世代の最後にして時代の寵児としてプロヴォークを生み出した。
アレ・ブレ・ボケといわれる前衛的な撮影行為で、そこには表現の限界へ到達しようという革新性があった。
しかし世界的に評価されたこの撮影行為が、単なる欺瞞であったと中平や森山は感じることになる。
プロヴォークは資本主義経済的に消費されてしまい、記号商品の一亜種と成り下がってしまったのだ。
中平卓馬は今までの作風を全否定し、主体性を排した究極の表現を求めていく。
しかしこれは、撮影行為自体の否定にならざるを得ないという矛盾を抱えていた。
これにより中平卓馬は病に倒れ、森山大道はスランプに苦しむことになる。
僕が思うに、中平卓馬たちが理想とした撮影行為は、先程述べた「常時動画撮影をした中から選ばれた写真」ではなかろうかとうことである。
中平卓馬は植物図鑑のような主体性を排した写真を目指し、森山大道は構図も見ずにシャッターを切るような撮影を行っていた。
だがどうしても主観が入り込んでしまうことに苦悩したのだ。
常時動画撮影のスチル化は、そこに主観は存在しない。撮ろうと思っていなかった瞬間を切り取る、それも無作為で良いし、AIに丸投げしても良い、そうすれば撮影行為が不要となるという矛盾は解決する。
結局、これからの撮影行為とは、人間の主観という不確定要素の多すぎる複雑系をシンプルかつ統計的に整理することなのだ。
これは表現を考え抜いた中平卓馬のような人たちには天啓であり、そして僕のような撮影者にディストピアである。
自己認識のための自己表現
僕のような撮影者とは、それは表現により自己認識を深めようとする社会不適合者である。
なぜ社会不適合者かというと、社会がそれを教科書に記していないからである。
そもそも人間とは、アウトプットされた情報からでしか自分が認識できないややこしい生き物だ。
社会的動物ともいわれるが、人間は社会集団で生きるために自分を殺している。だから、人間が自己を認識する際には、必ず「他者を通して情報化された自分」というデータから自分が何であるかを把握する。
だからこそ文明社会が存在し、だからこそ精神病や自殺が存在する。
文明社会を営むために、我々人類は多大な個を棄てている。
それに疑問を感じないように生きることが強制され、だからこそ教育という矯正が必要なのだ。
社会不適合者とは、そういった矯正でも我を棄てなかった人間であり、社会が強制する「身の丈を知れ」という記号のフルコンボから逃げまくっている逃避者である。
要するに、社会の用意した自己認識標準規格以外で自己認識しちゃおうというフリーライダーだ。
これはご存知、資本主義経済に取り込まれ、趣味やアウトサイダーと呼ばれ商品化されている。
カメラ・レンズ沼の住人とは、こうした自己認識を突き詰めるがために旺盛に消費するお客様である。オタクとかもそうかな。
これが「プロ」になってしまうと、標準規格に押し込まれ、表現を時代の記号に確信犯的に合わせなくてはならない。ジャニス・ジョプリンとかカート・コバーンが死んだのは確信犯になりきれなかったからだ・・・話が逸れた。
自己表現とは、自己認識のためのアクションだ。
何かをアウトプットしたいという欲求は、社会に取り込まれる自己の救出行為といえる。
表現というと芸術のような高尚なものをイメージするかもしれないが、決してそうではない。
言動や体動や嗜好といったすべてが表現だ。ファッションや音楽のようなカジュアルなものから、普段の会話や付き合う集団も表現だといえる。
資本主義社会は生産のために個を棄てさせたが、あえて個の喪失感を広告で躍起することで、アイデンティティへの渇望を商品にすり替えている。なんという悲劇。
カメラの機能は「記録」と「表現」
カメラは記録と表現の2つの機能を持つ道具だ。
そして記録はスマホに奪われた、しかし表現はカメラでなくてはならない。
表現には主観が張り付く。中平卓馬が排除しようとして主体だ。
構図を選んで、絞りやシャッタースピード、露出やホワイトバランスを操作し、シャッターボタンを押す。
この撮影行為の中には、無限に近い主体の断片が入り混じり、まさに銀塩プリントの世界だ。
記録にウエイトが乗りすぎているカメラのイメージに取り憑かれているのか、カメラメーカーはスペック競争に陥ってしまった。
しかしスペック競争は価格が非一般化し、操作の習得コストが跳ね上がってしまう。
するとスマホへの妥協を促す結果となってしまうと思うのだが。
結局、スマホやGoProのようなツールに、記録機能は奪われてしまう。
では、写真表現とは何か?
それは先程のべた自己認識のための自己表現であり、そして時代だ。
中平卓馬の時代と違い、現在はSNSの普及により個性豊かな写真が拡散されやすくなっている。
Photoshopでの加工を駆使したゴリゴリの自己表現だ。
僕の考察では、いわゆるエモい写真ブームはまさしく自己表現の拡大解釈だと思う。
『日本写真史』『じゃない写真:現代アート化する写真表現』で戦後の写真史の変遷を辿ると、写真表現は非演出と演出の間を行ったりきたりしている。
土門拳と東松照明の論争こそ、写真表現が何たるかを表している。
現代のエモい写真とは、脱構築された世界に「こうであったら良いな」という世界観を塗り込んだイメージだと思う。
ベッヒャー夫妻から続く脱構築された写真に、理想をデジタル加工して貼り付ける。
脱構築された何でも無い景色に、ジブリや新海誠のイメージを付け足す、そんな感じ。
悲観的な将来を見越して、現在の日常景色こそ理想だと思うことにしよう!という超悲観的な達観写真こそエモい写真だと思う。
この表現と時代性は、結局自己認識のための自己表現とは時代に合わせなくては意味がないというこれまた皮肉な矛盾を抱えている。
ゴッホの絵画は現在では世界中で称賛されているが、同時代人には見向きもされなかった。ゴッホは自殺した。
ゴッホは現代人の苦悩を先取りしていた。ゴッホは数十年早く、近代化による弊害を感じ取っていた繊細過ぎる人だったのだ。
要するに表現とは、他者から評価されて初めて自己認識につながる。それには時代を読むという超社会性を求められるのだ。
芸術家が苦悩するのが時代への迎合であり、行き着く果てには商品化か自死しかない。
そして、表現とカメラは親和性が高い。
だからこそ、戦後より一般に爆発的に普及していったのだ。
カメラは絵や音楽や彫刻などに比べ、簡単で安くて早い。これだけ変化の激しい現代では、写真のスピード感がまさしく時代的だったのだ。
そしてカメラは記録だけでなく、表現として認知されていき、一般大衆にも表現活動を提供する道具となったのだ。
カメラの終わりと始まりの狭間
そんなカメラだが、オリンパスのカメラ部門売却というニュースを知る前から、「終わりは始まっていた」と誰もが薄々気づいていただろう。
結局、一般的にカメラ=記録だ。僕の周りでも何かしらの非スマホのカメラを持っているのは、片手で足りるくらい少数派となっている。
子どもの写真すらスマホだ。子どもの運動会に一眼レフカメラ+望遠レンズ+三脚を持っていったら、めちゃくちゃ注目の的だった。
noteでカメラのオワコン化を書いたら、コメントで「銀塩カメラの形状遺産はオワコン化」という意見があってまさしくそうであると思った。
先程から書いてきた内容の通り、我々が「今」思うカメラ=機構は終わるのだ。
ファインダーや絞りやプリズムやシャッター幕、そんな当たり前が終わるのだ。
カメラは次のステージに移行している。
まさに今、(我々が今思う)カメラの終わりの始まりなのだ。
『SIGMA fp』とはカメラの始まりの象徴?
4000文字書いてきたが、やっとここで「SIGMA fp」の登場だ。
fpは発表と同時に、「たぶん買うな」と思った。
この予想だけは今まで外したことはない。
あのコンセプト動画を見て、「終わったな」と思ったのだ。
あれにはやられた。
カメラの死が宣言されていたからだ。
fpの細かいスペックは他に譲る。
「fpがこの世に出現したのは必然である」というテーマで書いていこうと思う。
fpは手のひらサイズながら、フルサイズセンサーを持つカメラだ。
フルサイズセンサーに意味はない。フルサイズに意味がある。
フルサイズとはライカが勝手に決めただけの指標に過ぎないが、これはカメラの神話となっている。
フルサイズはカメラの象徴だからだ。
歴史の浅いカメラ史の中でも、5本の指に入る伝説だろう。それくらい当たり前になっている。
fpは、そのフルサイズを極限まで小さく製品化している。
これは単なる省エネ小型化でもミニマリズムでもない、カメラの脱構築なのだ。
社長さんも脱構築を連呼していたが、これは他の巨大カメラメーカーには絶対にできない。
なぜなら巨大カメラメーカーは、カメラがカメラでないと困るからだ。
ミラーレス化は小型化といえるが、脱構築ではない。
SONYのフルサイズカメラの小型化は機能主義だが、SIGMAの小型化は脱構築なのだ。
最新のミラーレスカメラは、カメラの設計思想を受け継いでいるからだ。
SIGMAはSIGMAだからこそ、革新を生まざるを得ない。
fpはカメラの設計思想を破壊し、世にカメラの岩盤イデオロギーにも亀裂があることを提示してみせたのだ。
fpの割り切ったデザインで、カメラの象徴であったファインダーは後付けで、当然のように電子シャッターで、構えるための持ちやすさは無い。
拡張性を売りにしており、fpはカメラであってカメラでなく、まだ完成していない。
カメラという設計思想にはどこにも明記されていないfpのデザインは、カメラの終わりである。
SIGMAがfpを出したのは、カメラの始まりという未開の海へ誰よりも先に飛び込む決意だと思う。
どのメーカーもスマホにシェアを蚕食されながら、小手先の変化に甘んじている。
これは批判ではない。これだけわかりにくい経済の中でそんな挑戦のために社運を賭けるのはリスクでしかない。
SIGMAがそれをやったのは、SIGMAだからできたのだ。(注:讃えている)
fpは、トヨタのプリウスのような製品だろう。だがプリウスどころではない賭けであり、時代を変えたと歴史に残るかもしれないカメラだ。
カメラでいえば、現代のライカM3になるかもしれないのだ。
「カメラの終わりをいち早く宣言し、カメラ新時代の始まりの象徴となるべく生まれたのがfpである」というのは、カメラ愛好家なら少しわかってもらえるんじゃなかろうか?
このfpの未完成感、中途半端感、そして新しさ。
こんなカメラ、ここ最近あっただろうか?
時代の革新者は、たいてい非業の死を遂げる。
fpは吉田松陰だろう。勝者である新政府の思想の魁であったから神格化されているが、正直よくよく彼を学んでみると狂人に近い。高杉晋作すらドン引きさせるくらいクレージーな革命家だ。
fpは吉田松陰のように武蔵の野辺で朽ちるのか、それともカメラ史上に残る革新機として名を残すのか、それはまだわからない。
だが一つ言えることは、最近のカメラの新機種のスペックは素晴らしいが、メーカーロゴを消して真っ黒に塗ればどれがどれだかわからない。
結論『SIGMA fp』とは何か?
fpの挑戦は応援したい。
こんな企業、今の日本にはない。
そして純粋に道具として欲しい。
なぜならfpは、記録と表現をシンプルに突き詰めているからだ。
単なる小型化ではなく、単なるフルサイズでもなく、単なる道具になろうとしている。
SIGMAの脱構築とは、カメラを使う人間を増やすためにあるからだ。
社会不適合者の自己表現は、主体性がなくてはならないというのはこの記事で述べた。
主体性がなくては、社会と同じだからだ。社会という川でドンブラコされてばかりの人生などクソくらえと思っている社会不適合者は、主体性を渇望している。
最近のカメラは何でもできる。ピントを瞳に勝手に合わせてくれるし、失敗してもあとでRAW現像すればいいや。
正直なところ、本当は「α7III」を買おうと思っていた。
弟が持っていて、その便利さに圧倒されたからだ。
なぜα7Ⅲかというと、先程の記録と表現の話に戻る。
表現はフィルムカメラで良いかなと思ったからだ。
noteで作例を上げているが、フィルムカメラこそ表現を堪能できる最高の道具だと確信した。
ライカM3とプラウベルマキナ67があれば、超主体的で表現に全振りした撮りたい写真を追い求めることができる。
フィルムカメラのおかげで、写真について深く考えるようになり、それは自ずと表現についてだった。あらゆる写真に関する本を読みこんで、この記事を書いていることもそうだ。
となれば、あとは記録だ。
僕の写真の8割は家族写真だ。
メインカメラはNikonD750だ。家族写真は記録としての撮影が多くなる。
4歳時は走り回るし、最近動画も撮り始めたので、重い一眼レフカメラよりミラーレスカメラが良いなあと思ってきた。
なんせカメラが重いと撮影意欲が減少する。この損失のほうが、金銭的な損失より被害が甚大だと考えている。
カメラをホイホイ買うのを否定する人もいるが、カメラだけに限らないが「買わなかったことで生じる機会損失」を計算に入れていないのは間違っていると思う。
やってみて後悔より、やらずに後悔の方が圧倒的に喪失感は強いのだ。
なので記録のためのカメラとして最適なα7Ⅲが良いなあと思ってきた。
※あとはD750にGoPro買い足すかとか思ってた
だが、買う直前になってやはり「表現」なのだと思うようになった。
記録と割り切るのであれば、結局スマホで良い。
フィルムカメラのようなデジタルカメラがあれば、僕は最強じゃないかと謎の(そしてよくある)モードにスイッチが入った。
そこで海馬の端っこでぶら下がっていたfpが躍り出たわけだ。
これを単純な消費として割り切るのも簡単だが、こういう感情と合理がぶつかり合う現代人の脳に巧みに入り込むfpはだからこそfpなのだと思う。
正直、スペックで選ぶのであればfpはランク外だ。
コンパクトだが、最低限の機能だけで純正レンズも少ない。動画を売りにしているが、AFはSONYが圧倒している。
だがfpなのだ。
時代の先駆者になりうるという可能性、SIGMAの徹底した設計思想、そして背徳感をかき消すほどの所有感。
シンプルな道具であるというSIGMAの設計は、拡張性とともに撮影者の主体性を掻き立てる。
fpの不足した部分は、撮影者が補うのだ。コンビニのような痒いところに手が届くサービス旺盛なカメラもよいが、ただそこにあるだけになってしまうfpの孤独感こそ愛着が湧く。
fpは時代を変えるという意気込みを静かに抑え込んだ機械であり、その付加価値により撮影者の表現の枠を突き破ることができそうな道具である。
マンネリ化した表現の海の中で、自分の表現を探し求める「いつでもやめられる/任せられる」行為を追求できそうな道具なのだ。
現代のカオスの空気に満ちた世界で、fpは大衆的な「いいね」という新たな社会すら脱構築する存在であり、カメラの終わりのなのだ。
スペックが気になる人や明確に撮りたい対象がある人にはおすすめしない。
fpはfpのコンセプトと一緒に心中しても良いと思う人間しか買ってはいけない。
初心者も止めたほうが良い。使いづらいでかいスマホくらいにしか感じないだろう。
オールドレンズ好きは奥さんと要相談、これはレンズホイホイカメラだ。親族に石油王がいるか広島県の議員がいるのであればレンズ遊びが死ぬまで楽しめるぞ。
作例
作例その壱、Leicaレンズとfp
作例その弐、『わたしが見ていたかもしれないもの』
あ~楽しい。
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ライカM3買うか悩んでいた時と気分が似ている。
まさか中判カメラにまで手を伸ばすとは・・・
フィルムカメラを始めてネジがずれ、この本を読んでブッ飛んだ。
写真でキマリたい人にはおすすめです!