Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

ひとり あっとこすめ

忘れっぽいので自分で自分に評価・評判・感想を口コミ???

Don't think, feel. Be water と書かれた、室町時代初期(南北朝時代)あたりのお話


この本を手にとったきっかけは、多分、どこかの雑誌の書評だったと思う。


わたしは、育った環境ゆえに、足利尊氏さんのことは学校で習うより前から存じあげていた。但し、はっきりと認識していたのは、その名とお顔だけ。
その人物像を詳しくは知る由もなかったし、知ろうともしたこともなかった。
そして、私の時代は、理系にいけば、日本史は未履修確定となる人が多く、私も、中学生のあと、彼に出会うことはなかった。


ただ一方で、近年は、身内の人に「あの人ってどんな人?」と言われても、全くもって答えられないであろう自分に、心のどこかで引け目を感じていたのかもしれない。
だからこそ、今さらながらに、その本を手にとったのかもしれない、とは思う。





動機はさておき、、、とにかく、その本を読んだが最後、それからが大変だった。


小説に書かれた「尊氏さん」の人物像には、(ただひたすら直感でしかないが、)どうしても納得がいかなかった。
名前には馴染みがあって、そして、木像だけは、しかと見たことがあったあの人は、恐らく、こんな人ではなかったであろうという気持ちは、日に日に大きくなり・・・


結局、南北朝の沼に足を踏み入れた。


ただ、南北朝時代は、(要は史料が乏しいということなのだとは思うけれど)、定説が必ずしも定まっていないようで、様々な本を手に取るたびに、毎回、違うことが書いてあることすら当たり前の中で、私の頭は混乱を極めた。






しかし、そこで幸運に出会った。奇跡的に。。。


今年の秋、金沢文庫では久米田寺の特別展が開催され、鎌倉歴史文化交流館では北条氏150年の企画展が開催されていた。


百聞は一見にしかず、である。


久米田寺文書の、直義さんの願文は、思いのほか読みやすい。古文に慣れていない私のような読み手にも、意味が何となく伝わってくる。
自分を表現するような癖はあまり感じない。きれい。


一方、篠村八幡宮に奉納された尊氏さんの願文は、ネットで見た印象ともだいぶ違った。
とても丁寧に書かれており、几帳面な字。
ただ、ものすごい「くせ字」である。びっくりするぐらいに。


別に、私は筆跡診断の専門家でも何でもないので、こんなことを書いてよいのかは分からないけれど、、、


その丁寧さから、とても一所懸命にこの願文を書いたに違いない、と思った。
そして、多分、真面目な人なんだ、と思った。


ただ、くせ字のほうは、最初、解釈に戸惑った。
このような「くせ字」を書く人は、私の今までの経験上からの推測では、自分で自分を曲げられない。そして、プライドが高い。あくまでも自分を貫く人である。


でも、そうならば、(尊氏さんを極楽殿とまで称する)この本に描かれた尊氏さんと、本当の尊氏さんは、だいぶ違ったのかもしれない。
その解釈に躊躇はするが・・・

 

もしかしたら・・・


直義さんは、人の心に寄り添って、前向きに生きた。のかもしれない。


尊氏さんは、人の心に動くことなく、自分が棟梁でなければならないという運命に、葛藤を抱えながらも、真面目に寄り添い、それを貫いた。のかもしれない。
そのそぶりを見せることもなく。
本心は、心の奥(ダークサイド)に、しまったまま。
でも、そうやってしか、この時代、棟梁ではいられなかったに違いない。
実力だけで、そうなったわけではないのだから・・・






真実を知ることはない私の心に生まれた、小さな仮説。
棟梁を全うしたという史実の重さに、向き合えているだろうか・・・