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タキ井上のF1日本GPデビュー大作戦!!(中編)告白します!! 当時の持ち込み金はたったの「1000万円」!!【帰ってきたブラックフラッグ】

2022年10月1日 18時00分

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帰ってきたブラックフラッグ

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◇「タキ井上の帰ってきたブラックフラッグ」第8回

 2019年以来3年ぶりのF1日本GP開催(10月9日)まであと1週間。今回の『帰ってきたブラックフラッグ』は、「タキ井上のF1日本GPデビュー大作戦(中編)」である。
 さて1994年当時の僕は、F1世界選手権(F1)直下の国際F3000選手権(国際F3000。現在のFIA―F2に相当)へ自分たちで英国に設立したスーパーノヴァレーシングからレギュラー参戦していた。これだけでF1参戦に必要なスーパーライセンス発給条件はクリアしており、しかも母国グランプリとなるF1日本GPであれば、国際自動車連盟(FIA)は僕に前向きな配慮をしていただけると知っていた。
 もっとも、日本自動車連盟(JAF)のモータースポーツライセンスでヨーロッパのレースを戦っていた当時のタキ井上は当然、JAFを通してスーパーライセンスを申請しなくてはならない。ところがその際、当時のJAF審議員で元F1ドライバーだった中嶋悟氏1人だけが、僕へのスーパーライセンス発給に反対していたとあとで聞いた(汗)。
 まあ、金玉の小さい野郎だということが、このとき初めて分かった感じだった。しかし、「ルールにのっとっての正当な申請なので受理すべきだ」と童夢の林みのる社長(当時)が発言し、無事にJAFからFIAへ僕のスーパーライセンス申請がなされた! というのはここだけのハナシである(汗)。
 さて、94年シーズン終盤の段階でのスーパーライセンス取得は、もちろん95年のF1レギュラー参戦をにらんだものだった。で、シムテックF1からのF1日本GPデビューにあたり、僕がチームへ持ち込んだ金額はいくらだったか?
 なんと、たった1000万円! というのもここだけのハナシである(汗)。エディ・アーバインが93年のF1日本GPへジョーダンF1からデビューした際も1000万円。僕はその金額を知っていたからこそ、シムテックF1へ1000万円で乗りたいという話を持ち込み、交渉は無事に成立したのである。
 同年、某日本人ドライバーは下位F1チームに1レース2500万円、3レースで7500万円を持ち込んで乗ったと聞いて後ろへひっくり返った。全日本F3000選手権で王座に就いた某イタリア人ドライバーは、中堅F1チームへ1800万円を持ち込んで乗ろうとしたけれど、あっさり断られたと聞いた。
 そう考えると、タキ井上は非常にリーズナブルにF1のシートを獲得し、スーパーライセンスも手にしたわけだ。
 で、94年F1日本GPにデビューするにあたり僕は、スペイン・バルセロナのサーキットで事前テストに臨む運びとなった。
 しかし、どういう理由か僕1人のテスト参加にチームは良い反応を示さず、仕方なくスーパーノヴァレーシングでチームメートだったビンツェンツォ・ソスピリとのシェアテストを提案。結局、シムテックがこれをのんでソスピリと2人、それぞれで20周くらいは走った記憶がある。要は、シムテックは当時ジャンジャンバリババリ売り出し中だったソスピリの実力を評価するため、僕のテストをダシに使ったというわけである(汗)。
 シムテックF1のS941シャシーは、テクニカルディレクターのニック・ワースとチーフデザイナーのポール・クルックスによるもので、下位チームとはいえそれほど悪い印象は受けなかった。ただし、当時のF1に参戦していた28台のうち、このシムテックS941だけがパドルシフトではなくシーケンシャルシフトで、僕らに供給されたフォードHBD6 3.5リッターV8エンジンもなぜかショボかった。
 こうして迎えた鈴鹿サーキットのF1日本GP、タキ井上はポールポジションを獲得したミハエル・シューマッハーから約7.8秒遅れの28台中26番手(つまりドベ)で見事に予選を通過した。予選落ちしたパシフィックGPF1チームの2台に、1秒以上の大差をつけての決勝グリッド獲得は立派であると思う!
 もっとも、F1日本GPの予選前日に最下位を争うライバルであるパシフィックF1のチーム・オーナーである“ウィギー”(キース・ウィギンス)はタキ井上に「僕らはここで予選落ちしないといけない状況だ。なぜなら、ベルトラン・ガショーのクルマに載せているエンジンライフは決勝を走れるほど残っていないし、タイヤ交換用の機材さえも持ってきていない。だから、何が何でもタキに予選を通過してもらわないとダメなので、応援しているよ」ととんでもない事実を告げていた、というのもここだけのハナシである(汗)。
 つまり、パシフィックF1は機材の輸送費を極力抑えるとともに予選だけは出走して、不参加による罰金がFIAから科されないようにと考えていたわけである。これは当時の金欠F1チームのシーズン終盤における常とう手段であり、F1の旧き良き時代でもあったように思う。まあ、だからこそタキ井上のようなドライバーでも、F1へ参戦できる時代でもあった。
 それはともかく、決勝はひどいウェットコンディションのもとで始まり、しかもスターティンググリットへ向かう途中で5速ギアが入らなくなった。それをチームへ無線で伝えると、「このコンディションだったら5速ギアは必要ない」と返されて(汗)、まあ踏んだり蹴ったりのスタート切ることになる。そして4周目のホームストレートでコースにできた川に乗り僕はスピン。ティレルF1から参戦していた片山右京とほぼ同じ場所でクラッシュ、リタイアの憂き目に遭った。それでも、僕にとっての“本番”は95年のF1レギュラー参戦だったので、まあこんなものかと思った。
 94年にシムテックF1からF1日本GPへスポット参戦した際、フジテレビをはじめと日本の自動車レースメディアの反応は、これ以上はないだろうというくらいの“シカト”状態だった。タキ井上がF1参戦している事実を、何が何でもテレビ視聴者やファンに隠し切る方針であると感じた。当時はソーシャルメディアがなかったのでそれも可能だったが、今から考えてみれば恐ろしい時代だったようにも思える。
 実際、僕のもとへ取材に訪れた日本人の自動車レース記者は2名だけだったと記憶している。しかもその質問と言えば、「どうやってスーパーライセンスを購入したのか?」「どうやってF1のシートを購入したのか?」とトチ狂った2点に集中していた。
 しかし、その日本人記者たちを責めるわけにもいかなかった。それが日本における当時のF1に対する理解だったのであろう。“F1には選ばれた世界最速のドライバーたちが、巨額のギャラをチームからもらって参戦している”というのが、日本における当時の都市伝説だったことは本稿の最後に付け加えておこう(汗)。
  ◇  ◇  ◇
▼タキ井上 1963年9月5日生まれ、58歳。神戸市出身。本名は井上隆智穂。94年F1日本GPでシムテックからデビュー。95年はアロウズでフル参戦し、決勝最上位は8位。ただし、当時の入賞は6位までで、ポイントは得られなかった。96年はミナルディへの移籍発表後、開幕前にシートを喪失。F1の世界から追い出された。その後は、ヨーロッパで若手選手のマネジメントに心血を注ぐ。モナコ在住。
  ◇  ◇  ◇
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