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第2章-2 ロボットは考えているのか、いないのか人とロボットの秘密(1/2 ページ)

» 2009年05月21日 14時30分 公開
[堀田純司,ITmedia]

人とロボットの秘密

 ロボット工学を「究極の人間学」として問い直し、最前線の研究者にインタビューした書籍「人とロボットの秘密」(堀田純司著、講談社)を、連載形式で全文掲載します。

バックナンバー:

まえがき 自分と同じものをつくりたい業(ごう)

第1章-1 哲学の子と科学の子

第1章-2 「アトムを実現する方法は1つしかない」

第2章-1 マジンガーZが熱い魂を宿すには


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ロボットは考えているのか、いないのか

 しかし有機システムによる代替ならば話はわかりやすい。それがもし純粋に機械によって機械が制御された場合、それがいかに人間らしくふるまったとしても、書き込まれたプログラミングにしたがっているだけではないか。それを人間が持つ知性と同じものだと見なしてもよいのだろうか。なにか同じ原理が働いていると考えてもいいのだろうか。

 大阪大学大学院工学研究科の石黒浩(いしぐろひろし)教授は、この問いかけに対してエキサイティングな回答を用意している。

 その研究を取材させてもらうために大阪府吹田市にある大阪大学を訪れた筆者に、教授は研究室である映像を見せてくれた。

画像 Robovie ロボットの社会参加を目指し、日常活動型として開発されたロボット・Robovieが、子供たちに展示物を案内している様子。(画像提供:ATR知能ロボティクス研究所)

 それはATR知能ロボティクス研究所が開発した、展覧会で子どもたちを案内するロボット。子どもたちはみなIDタグを持っており、展示物にはそのIDタグを読み取るリーダーがついている。ロボットはリーダーから、「子どもたちがどの展示物にどれくらいの時間立ち止まったか」という情報を受け取り、その情報を元に次に興味を持ちそうな展示物を判断して、子どもたちを案内していく。大喜びの子どもたちにわいわいと取り囲まれながら、ロボットは軽快に動いて連れていく。さて、このロボットは考えているのだろうか。考えていないのだろうか。

 このロボットは、どの展示物をどれくらいの時間見たという情報を受け取り、その情報で子どもたちの嗜好を調べて、平均を判断しながら次の展示物へと完全自動で誘導しています。このように情報をきちんと集めることができて、それを解釈し、その解釈にもとづいて行動することができれば、ロボットは充分人間と同様に“考えている”ように見える。逆にいうと人間の思考は、それ以上のことをやっているのでしょうか。

 と教授は筆者にいった。

 考えるプロセスには、なにが必要とされるか。それをつきつめると「情報を獲得し」「それを解釈して」「行動する」という3つの要素に行き当たる。で、あるならば「すでに現在のコンピューターやセンサーの性能はある意味では、充分“知能がそこにある”と人に感じさせることが可能な段階に到達している」と石黒教授は指摘するのである。

 確かに映像の中のロボットは子どもたちと、とても親密な雰囲気をかもし出しながら、コミュニケーションしているように見えた。

知能とは主観的な現象である

 石黒教授は「知能とは、このコミュニケーションという現象の際に観察される主観的な現象である」と定義している。この定義は、いったいどういう意味を持つのだろうか。教授は、知能とは人間の主観をはなれて客観的に存在するもの、実体を持つものではないと指摘しているのである。

 古典的な人工知能の研究ではコンピューターという箱の中に知能を再現しようとした。これは知能が、我々の中に存在する実体であるという、素朴な実感にもとづく試みだったといえる。

 しかし、たとえばあなたはこの世界やあなたの体が存在することなしに「ただあなたの心があるだけ」という状態を考えることができるだろうか。

 パドヴァ大学の哲学教授、ピエトロ・ポンポナッツィは16世紀に、「知性そのものは身体から独立しても、思考の対象は感覚なしには現れない。だから感覚をつかさどる体が滅んでしまえば、魂も滅ぶ」と主張し、当時としてはユニークな理論で魂の不死を否定した。

 これは確かにそのとおりで、我々が意識することができるのはつねに感覚によってもたらされる、あるいはもたらされた、なにものかについての意識であり、それらを消し去って「意識そのもの」を意識することはできない。

 たとえば机、キーボード、ディスプレイについて意識することはできても「それを意識している意識」を意識しようとすると、「意識しようとする意識を意識する」というややこしい事態におちいってしまう。

 これはなにも事物に限らず、人は赤、平和、愛、車などについて考えることはできても「なにも考えていない意識そのもの」を意識することはできない。

 この議論をとことんまで推し進めたのがイギリスの経験論者、デイビッド・ヒュームで、彼はその著書『人性論』の中で、「私自身と呼ぶものに最も奥深く入り込んでも、私が出会うのは、いつも、熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛や憎しみ、快や苦といった、ある特殊な知覚である」と指摘し、人間についてこのように語った。

「人間とは、思いもつかぬ速さでつぎつぎと継起し、たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束あるいは集合にほかならぬ」(土岐邦夫訳)

 機械で表現するならばセンサーの束である。

 デカルトは心の外の世界に対して、心もまた同じように独立して存在する実体であると考えた。しかしヒュームは「心とは、それそのものでは存在しない。外の世界を経験してはじめて生じるものであり、抽象概念だってやっぱりそうだ」と主張したわけである。

 時代は下ってフランツ・ブレンターノという哲学者は、こうした概念を「志向性」という言葉で表現した。

 人はなんとなく「意識」という実体(はっきりいえば魂だ)があって、テレビに番組が映るように、意識の座に内容が映るというように感じている。しかし実は意識とは「つねになにかを意識(志向)している意識」なのだ。なにも受信していなくてもテレビはテレビとしてそこにあるが、一方なにも意識していない状態の意識は発生しない。たとえば夢は意識していても、眠りは意識できない。つまり意識とはなにか情報とコミュニケーションしている“状態”であり、魂のようなひとつの絶対的な実体ではないようである。

 しかし従来の古典的な人工知能の研究では、いわば魂を機械の箱の中に宿らせるがごとく、コンピューターに推論するメカニズムや学習するメカニズムを組み込んで、知能を実現しようとしてきた。しかし、こうしたアプローチはうまくいかなかった。

 この試みは、「実体としての意識モデル」が、実際にうまく働くかどうか確かめるという実験だったといえる。しかし、そのモデルではうまくいかなかった。だから、先人の研究にしたがっていくら推論する箱に改良を加えて、精度を上げていっても道は遠い。

 人間の知能は、自分が置かれた環境と非常に複雑な相互作用を行っているように見えるが、その要素を分解してしまうと「世界を感じるセンサー」「それを解釈する機能」「解釈にもとづいてアクションを起こす体」となる。

 逆にいうとこの3つの機能が実現すれば、ものすごく単純であっても世界と自律的にコミュニケーションできる機械ができる。あとはそのコミュニケーションの密度をどんどん上げていけば、いずれは知能と呼べる存在に到達するだろう。これが石黒教授の示すヴィジョンである。

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