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70 時代平籠
屋上で実った鬼灯をそのままにしておくと、冬の終わりには、すっかり葉の落ちた枝に実だけが残っています。多くの草木が枯れて殺風景となったプランターの並ぶ中で、殻の透けた鬼灯の実が立ち残る姿に、いつも不思議な気配を感じていました。その枯れた鬼灯を枝ごと切って、様々な器に投げ入れてみるのですが、どう挿しても屋上で感じた気配は消えてしまい、幾分滑稽でみすぼらしい姿になってしまいます。私の技量の無さにガッカリすると同時に、何とも不思議に思っていました。この冬も屋上で枯鬼灯を眺めていて、「そうか……」と思うことがありました。鬼灯に限らず立ち枯れの草木は、まだ土(地上)にある時にはわずかでも生気を保っていますが、土から離れた(切られた)途端にそれは消えてしまうのではないか、と云う思いです。枯れた草木と云えども、土にある間は生き続けており、土から離れた時に完全にその生を終えるのかも知れません。
ヤツレの見える細竹で編まれた籠は、30年以上前に郷里の新潟で仕入れたもので、栗八スタッフの早川さんに「欲しい」と頼まれ譲っていたものです。以来ずっと栗八の片隅で、時々は果物や煎餅などが無造作に盛られて今日までありました。昨年末に早川さんが突然亡くなり、籠は今、形見となって栗八にあります。
小山さんのこと その5
骨董屋や蒐集家の手さえ経ていない、さらに云えば人の目にも触れていない様なうぶい品を、名の知れた社寺から探し出し、買い取ってくることの出来る小山さんの「何か」とは……。本人曰く営業で培った技云々は、実のところ、本質とはかけ離れていたのではと思います。その人のもつ個性と云うか、相手に与える気の様なものと云うか、何とも言葉にするのが難しいのですが……。
小山さんに、その「何か」と共に備わっていたのが、美しさに対する素直な驚き(感動)の表明と、営業で培ったと云う、駆け引きを楽しむ様な会話のゆとりです。青井さんの店でも、栗八に訪ねてきた時でも、好みの品が目の前に出てくれば大げさなほどに感動を表し、素直に喜んでくれますから、見せるほうもついつい嬉しくなります。「では、これも……」と、秘蔵の品まで持ち出して見せたくなる訳です。商いを離れて、その品のもつ味わいや美しさ、歴史的な価値感を共有できていると云う手応えは、骨董屋、蒐集家の区別なく嬉しく心強いものです。
しかし、そこまでなら良いものを見た(見せてもらった)で終わるのですが、小山さんの場合はその先があります。好みの品、感動した品は、値の高低にかかわらず欲しがります。今は売りたくないと云う品でも欲しがります。「売れ」「売らない」、「買う」「売らない」は、小山さんにとっては、好みの品を手中にするための楽しい第一歩であった様です。私は小山さんのうぶ出し(うぶい品を買う場面)に直接立ち会った経験はありませんが、社寺で見せられた(売り物ではない)品であっても、その姿勢は同じだったのではないでしょうか。感動した品、好みの品が目の前に現れれば、それがどの様な場であっても欲しい気持が働いたのかも知れません。もしかすると、骨董屋以外の場所のほうが、その気持がより強く働いたのではないでしょうか。それが小山さん独自のスタイル(蒐集のダイナミックさ)を生んだ原動力となっていた気がします。
それにしても、著名な社寺を訪ね、住職や宮司と親しく言葉を交わし、やがて庫裡に収まるうぶい品々を見せてもらえる様になるだけでも、私たちの感覚からすれば尋常な事ではありません。さらにそれらを買ってきてしまうのですから、驚かずにはいられません。小山さんの持っていた「何か」とは、美しいものに出会い、蒐集することに魅せられた(取り憑かれた)ハンターの情熱が生み出す強力な欲求(エネルギー)ではなかったかと、今私は思っています。
蒐集家とは、好みの品を買い求め、身近に置き、味わい、学ぶことを楽しみとする人たちに他なりません。更に踏み込み、蒐集家の知らぬ(求めぬ)達成感を味わった小山さんが、ついに骨董屋になると言い出しました。
*この連載は、高木孝さん監修、青花の会が運営する骨董通販サイト「seikanet」の関連企画です
https://store.kogei-seika.jp/