Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

ウズベキスタン・イスラム運動とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ウズベキスタン・イスラム運動の意味・解説 

ウズベキスタン・イスラム運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 09:45 UTC 版)

ウズベキスタン・イスラム運動(ウズベキスタンイスラムうんどう、Islamic Movement of Uzbekistan、IMU)(ウズベク語: Ўзбекистон Исломий Ҳаракати/O'zbekiston islomiy harakati) は、1998年に創設されたイスラム軍事組織。

ウズベキスタン・イスラム運動
活動期間 1998年8月–2015
指導者 ジュマ・ナマンガニ 
タヒル・ユルダシェフ 
ウスマン・アディール 
ウスマン・ガズィ英語版 
活動地域 アフガニスタンパキスタン
後継

イスラム国 ホラサン州(一部)
イスラム聖戦連合英語版(一部)

(最高指導者を公開しないままIMUを名乗る組織が活動)
関連勢力
敵対勢力
  • ターリバーン(2015-)
  • 北部同盟
  • アフガニスタン・イスラム共和国(2001-)

    テンプレートを表示

    沿革

    1998年イスラム軍事組織の「ウズベキスタン・イスラム運動」がアフガニスタンカーブルで結成される[1]。 創設者は原理主義者のタヒル・ユルダシェフソ連落下傘部隊出身のジュマ・ナマンガニ。ともにフェルガナ盆地出身のウズベク人イスラム・カリモフ政権打倒と、シャリーアに基づくイスラム国家樹立が目標で、政治部門はユルダシェフが、軍事部門はナマンガニが指導した。

    IMUは、タジキスタン内戦1992年-1997年)にタジキスタン・イスラム復興党の信任を得て参加、この時期、ペシャーワルウサーマ・ビン=ラーディンとも繋がる。

    タジキスタンタリバーン支配下の北アフガニスタンをベースに、1999年から2000年キルギス南部、及び、ウズベキスタン政府軍への攻撃を続けた。

    2001年以降は、北部同盟及びアメリカ軍との戦闘で敗北を喫し、ナマンガニは戦死した。ユルダシェフは残党とともにパキスタン連邦直轄部族地域にあるワズィーリスターンに逃げ込み、パキスタン政府転覆の戦いを続けた。

    ユルダシェフはタジキスタン・イスラム運動(Islamic Movement of Tajikistan、IMT)の名も用いていたが、2002年以降アルカーイダとの関係を深め、中央アジア・イスラム運動(Islamic Movement of Central Asia、IMCA)の名でも運動を開始、支部に、トルキスタン・イスラム運動(Islamic Movement of Turkestan、IMT)もある。しかし、IMUもこれらの組織もワズィーリスターン以外での現在の勢力は不明である。

    ユルダシェフは、2009年8月27日、南ワズィーリスターン・カニゴラムで無人航空機の攻撃を受け死亡した[1]。そして、ユルダシェフの後継者としてウスマン・アディール(ロシア語: Усман Адил英語: Abu Usman Adil)が指名され、さらにその後ウスマン・ガズィ(ロシア語: Усман Гази英語: Usman Ghazi)が後継者として指名された。

    2011年4月、2012年3月26日2012年4月7日にアフガニスタンのIMUはISAFの攻撃を受け、後継指導者はいずれも死亡した。

    2014年6月8日のカラチの国際空港襲撃事件の犯行の関与を認めて、パキスタン・ターリバーン運動と協力を主張[2]

    2015年後半、最高指導者のウスマン・ガーズィ英語版オマル師の死を巡ってマンスール師に対して反乱を起こしたムラー・ダードゥラーの部隊英語版と共にターリバーンの攻撃を受けて死亡した[3]

    脚注

    関連項目


    ウズベキスタン・イスラム運動

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:07 UTC 版)

    ジュマ・ナマンガニ」の記事における「ウズベキスタン・イスラム運動」の解説

    1990年代中盤後半、ナマンガニは、アフガニスタン再三出国しウズベク人原理主義者戦闘訓練問題武器及び装具購入及び運搬従事した1996年サウジアラビア滞在しサウジ総合情報庁の直接監督下で活動する外国人学生用の宗教センター教育受けた1997年、ナマンガニは、「ウズベキスタン・イスラム運動軍総司令官となった未確認情報によれば1999年バトケン事件時、ズバイル・イブン・アブドゥッラフマンの偽名同事件に関与したとされる1999年11月、ナマンガニの戦闘員は、タシケント州ヤンギアバード市(タシケントから75km)の内務省職員に対して数回攻撃実行した2000年5月5日反体制派野党との更なる平和構築を望むドゥシャンベ当局要求により、ナマンガニは激し罵り言葉を残してタジキスタン離れ支持者と共にアフガニスタンマザーリシャリーフ市に移った

    ※この「ウズベキスタン・イスラム運動」の解説は、「ジュマ・ナマンガニ」の解説の一部です。
    「ウズベキスタン・イスラム運動」を含む「ジュマ・ナマンガニ」の記事については、「ジュマ・ナマンガニ」の概要を参照ください。

    ウィキペディア小見出し辞書の「ウズベキスタン・イスラム運動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


    英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
    英語⇒日本語日本語⇒英語
      

    辞書ショートカット

    すべての辞書の索引

    「ウズベキスタン・イスラム運動」の関連用語

    ウズベキスタン・イスラム運動のお隣キーワード
    検索ランキング

       

    英語⇒日本語
    日本語⇒英語
       



    ウズベキスタン・イスラム運動のページの著作権
    Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

       
    ウィキペディアウィキペディア
    All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
    この記事は、ウィキペディアのウズベキスタン・イスラム運動 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
    ウィキペディアウィキペディア
    Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
    Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのジュマ・ナマンガニ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

    ©2024 GRAS Group, Inc.RSS