カリフ即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:39 UTC 版)
仲間内での抗争を防ぐため、アッバース革命の中で誰がウマイヤ家のカリフに代わる新たなイスラームの指導者になるか明確にされていなかった。749年9月にホラーサーン地方で挙兵したダーイーのアブー・ムスリムがクーファに入城し、新たな指導者の選出が始められる。アブー・サラマは正統カリフ・アリーの一族からカリフを選ぶ事を望んでいたが、アブー・ムスリムらホラーサーンの革命軍はアッバース家のアブー・アル=アッバースをカリフに選出してバイア(忠誠の誓い)を行い、アブー・サラマもやむなくアブー・アル=アッバースの即位を認めた。749年11月にクーファでアブー・アル=アッバースがカリフへの即位を宣言し、翌750年にウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世が殺害されたことが確認されると正式に新王朝が樹立された。 750年、アブー・ジャアファルは将軍ハサン・ブン・カフタバとともに、ウマイヤ朝のイラク総督ヤズィード・イブン・フバイラが立て籠もるワーシトを包囲する。11か月に及ぶ包囲の末、ヤズィードと彼の家族、家臣の安全と全財産を保障する条件でワーシトに入城した。ヤズィード一族の勢力を警戒するアブー・ムスリムとサッファーフはヤズィードたちの処刑を命じ、アブー・ジャアファルは命令の遂行を拒否し続けたものの押し切られ、ヤズィードと彼の長男、家臣を処刑する。 アブー・アル=アッバース(サッファーフ)の即位後、アブー・ジャアファルにアリー家出身者のカリフ選出を主張したアブー・サラマへの対処が求められる。アブー・ムスリムが派遣した刺客によってアッバース家の人間が泥を被ることなくアブー・サラマを粛清することができたが、アブー・ジャアファルはアブー・ムスリムの能力と軍事力に恐れを抱くようになる。クーファに帰還したアブー・ジャアファルはサッファーフからジャズィーラ地方(イラク共和国北部、シリア・アラブ共和国、トルコ共和国にまたがるメソポタミアの地域)の統治を任され、モースルに赴任したくようになる。 754年にアブー・ムスリムは二心がないことを示すためにアッバース朝の首都アンバールを訪れ、サッファーフと談笑した。そしてアブー・ムスリムは歴代のカリフが直々に行うメッカ大祭に向かう巡礼団の総指揮を申し出たが、総指揮はすでにアブー・ジャアファルに委任されていた。この時にアブー・ジャアファルはサッファーフにアブー・ムスリムの排除を進言したが、サッファーフは功績のあるアブー・ムスリムの粛清を躊躇い、アブー・ジャアファルの意見は容れられなかった。巡礼団にはアブー・ムスリムが補佐として同行し、両者は一定の距離を置きながらも衝突を起こすことなく巡礼を終えたと考えられているが、巡礼の途上でアブー・ジャアファルとアブー・ムスリムの間に諍いが起きたとも言われている。巡礼の帰路で一行がアンバールに達した時、一行の元にサッファーフの訃報が届き、アブー・ジャアファルはカリフ位の継承を宣言した。ベルベル人の女奴隷の子供がカリフに即位した前例は無く、マンスールの即位はアラブ純血主義を打破するきっかけとなった。
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