シュトラールズント要塞
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「シュトラールズント攻囲戦 (1715年)」の記事における「シュトラールズント要塞」の解説
シュトラールズント要塞は17世紀から18世紀にかけて、北ヨーロッパでも最大の要塞・防衛施設の一つであった。その司令官、カール・グスタフ・デューカー(ドイツ語版)大将は1711年、攻囲を受ける要塞の砲台の下、フランケン門の付近に武装化・要塞化された陣地を構築していた。そして、そこに歩兵3個連隊を配したのである。また既存の要塞施設の前面に、角面堡、塁壁や稜堡を備える一貫した防衛線を構えた。これは西へは湿地まで、東へはシュトラールズントの浜辺まで伸びていた。同市周辺の地勢は、効果的な防衛に有利であった。数々の湿地と、冠水させた平野のおかげで小部隊が籠る個々の防衛施設は、防衛線の守備隊よりも抗戦の手段に恵まれていたのである。 攻囲戦の当初、町の守備隊の兵力はおよそ9,000名であった。そしてシュトレーゾウの戦いがスウェーデン軍の敗北に終わると、さらに2,000名が国王カール12世とともに要塞へ逃れて来た。
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