ヒルマン・コータレン・モーター・カー・カンパニー・リミテッド(1907-1909年)
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ルイ・コータレン ウィリアム・ヒルマンは、コヴェントリーのストーク・アルダムーア(Stoke Aldermoor )のアビンドン・ハウス(Abingdon House )に移る)。 フランスでド・ディオン・ブートン(1906年-1907年)には英国でハンバー自動車で働いていたフランスブルターニュ出身で28歳だったルイ・コータレン(Louis Coatalen )を設計者兼主任技術者とし、1907年に自動車会社 ヒルマン・コータレン・モーターカー(Hillman-Coatalen Motor Car Co. Ltd. )を創立。工場は自宅の一角だった。 コータレンの最初の車はレース用車両で4気筒エンジンを搭載した24/25cvだった。これでマン島の自動車レースにコータレン自身の運転で参戦、レース途中にクラッシュしゴールできなかったものの車は評判となった。 その後自転車、ミシン、ローラースケートを製造していたフッド通り9-11にあったオート・マシナリー・ワークスに自動車製造も移される。最初の乗用車は9.76リッター6気筒、6.4リッター4気筒を搭載した大型だった。 1908年9月24日、コータレンは王立自動車クラブ(RAC)主催のマン島 "Four-inch" レースに出場。ネイピア・ハットンに乗ったW・ワトソンが優勝し、コータレンが運転したヒルマン・コータレン車は9着とビリから2番目だった。 1908年には1930年まで変わることなく続いたヒルマン・ラジエターがデザインされた。 ルイ・コータレンは自身の持ち株を会社に売り1909年サンビームの主任技術者となる。彼はサンビームでも速度記録に挑んだ。また、サンビームでサンビーム・コータレンエンジンを作り、アストラ・トウレ飛行船にも使われた。この飛行船は海軍AT式2号飛行船として日本でも使用された。コータレンの移籍によりヒルマンはスポーツ・ブランドではなく、大衆ブランドへの道を歩むこととなる。
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