ペルシア遠征(363年)
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「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の記事における「ペルシア遠征(363年)」の解説
サーサーン朝のシャープール2世は、ディオクレティアヌス以来の均衡状態をおよそ40年ぶりに破り、かつてのアケメネス朝の領土の返還を迫ってローマ帝国と戦端を開いた。ローマ側はこれを防いでいたが、361年末にコンスタンティウスは東方国境から撤退してしまった。したがって、ユリアヌスが皇帝となったとき、コンスタンティウスの治世に持ち上がった懸案は解決しておらず、ローマの東方国境は再びサーサーン朝の攻勢に晒されていた。 363年3月5日、ユリアヌスは8万から9万の兵を率いてアンティオキアを発った。この遠征には兵士だけでなく、コンスタンティヌスの時代にローマ帝国に亡命していた、シャープールの弟ホルミズド (Hormizd) を伴っていた。まずはアルメニア王アルサケスに食糧と援軍を提供するように指示を出し、ヒエラポリス(現マンビジ)にて補給態勢の確認を行ったのち、ユーフラテス川を渡ってメソポタミアに入った。メソポタミアのカルラエ(現ハッラーン)では、プロコピウス (Procopius) とセバスティアヌスに3万の兵を預け、アルメニアの援軍と合流してメディアを征服するように命じた。 ユリアヌス率いる本隊はユーフラテス川沿いのカリニクム(現ラッカ)に向かい、遠征のために編成された艦隊と合流した。艦隊は約千艘の船からなり、食糧・武器・攻城兵器が積まれていた。中には浮橋用の平底舟もあった。カリニクムを発った後はキルケシウム (Circesium) (現ブセイラ)にてハブール川を渡り、そのままユーフラテス川を下った。アンミアヌスの記録には、途中経由(陥落・占領・焼き討ち)した都市として、ドゥラ・エウロポス、アナタ (Anatha) 、ティルタ、アカイアカラ、バラクスマルカ、ディアキラ、オゾガルダナ、マケプラクタの名前が出ている。このうちオゾガルダナには、トラヤヌスのパルティア遠征時に建てられた裁判所の遺構が残されていた。 その後はピリサボラ (Anbar) を陥落させ、運河ナハルマルカに到達した。トラヤヌスが船を運んだ経路が残っていたため、ユリアヌスはこれを開き、ユーフラテス川からティグリス川へと船を移した。こうしてユリアヌスはクテシフォンの間近に迫り、その城外での戦闘にも勝利したが、好機を逸したために占領に失敗した。ティグリス川から南下してくるはずの援軍は到着せず、シャープールの軍も接近しつつあり、情勢は芳しくなかった。クテシフォン近郊に留まることを断念したユリアヌスは、艦隊を焼き、撤退に移った。プロコピウスとセバスティアヌスの部隊を目指してティグリス沿いに北上したが、6月26日、敵襲に対して指揮をとっている際に投槍を受け、陣中で没した。死に際して「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承がある。 撤退中の陣中で選ばれた新たな皇帝ヨウィアヌスは、退路の安全を確保するため、以下のように大幅に譲歩した条件でシャープールと講和した。 サーサーン朝は、アルザネネ (Arzanene) 、モクソエネ (Moxoene) 、ザブディケネ、レヒメネ、コルドゥエネ (Corduene) の5つのトランスティグリタニア地方を15の砦とともに得る サーサーン朝は、ニシビス (Nisibis) 、シンガラ (Singara) 、カストラ・マウロルムを得る ローマ帝国は、ニシビスとシンガラから、軍と住民を退去させてよい ローマ帝国は、今後一切、アルサケスを助けサーサーン朝に対抗しない これにより、サーサーン朝側の優勢は決定的となり、さらにローマ帝国は北方の国境にも問題を抱えていたため、以後、両国間に大規模な武力衝突はなくなった。4世紀末にテオドシウス1世が一時攻勢に出たが、東方国境以外に不安要素を抱えていたため、アルメニアを東西分割してその西側の一部をローマ側のものとするのが限界であった。ユリアヌスのような大規模な遠征は、6世紀半ばのユスティニアヌス1世の征服活動を待つことになる。
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ペルシア遠征
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「スチェパン・ラージン」の記事における「ペルシア遠征」の解説
カスピ海に乗り出したラージンは、デルベントからバクーに至るペルシアのカスピ海沿岸を荒らし、ラシュトの中央市場では住民の大殺戮に及んだ。1669年の春、スイナ島を収めたラージンは、7月にはペルシア艦隊を撃滅、ステンカ・ラージンは手のつけられない存在となった。 1669年、ラージンは再びアストラハンに現れ、そこで皇帝・アレクセイ1世の恩赦を受けた。人々はラージンの活躍に魅せられていった。アストラハンのようなロシアの国境地帯はまだ無法地帯で、人々はいまだに遊牧民的であり、ラージンの武装蜂起を受け入れるような環境が整っていた。
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