しなの‐がわ〔‐がは〕【信濃川】
信濃川
越後平野を潤す日本最長の美しき大河
(注:この情報は2008年2月現在のものです)
信濃川は、長野・新潟県境で「千曲川」から「信濃川」と名を変え新潟県に入り、中津川、清津川及び谷川岳に源を発する魚野川と合流して越後平野を潤しつつ、大河津分水路ならびに関屋分水路を分派して日本海に注ぎます。流路延長は水系全体で367kmと日本で最も長い河川です。水系全体の流域面積は新潟県の面積とほぼ等しい11,900km2で、利根川、石狩川に次いで第3位となっています。 |
新潟県長岡市上空より信濃川(越後平野)を望む |
河川概要 |
| ○拡大図 |
1.信濃川の歴史 |
"信濃川には、かつて「長岡船道」と呼ばれる船便が長岡と新潟の間を航行しており、陸路が全く発達していなかった時代には、大量の年貢米を運ぶ運送路として重要な役割を担っていました。同じ頃に長岡の城下町を守るために築かれた「左近堤」が今も名残をとどめています。また、信濃川の洪水から生命財産を守るために先人が築いた十日町市の「中山堤防」は現在も中魚沼地区全体を守っています。" |
信濃川の舟運と今も残る先人が築いた堤防 |
2.地域の中の信濃川 |
"信濃川の流域には古くから川にまつわる祭りや行事がいくつもあり、大河津分水路で行われる「おいらん道中」、長岡市街地を貫流する信濃川河川敷で打ち上げられる「長岡まつり大花火大会」、魚野川で行われる「十五夜まつり」が代表的です。また、信濃川では、緩傾斜堤防や子供たちが自然とふれあう場である。「水辺プラザ」や「つまりっこ広場」が整備され、地域住民の憩いの場として利用されています。" |
信濃川と人々とのつながり 信濃川にまつわる祭りや伝統行事 信濃川の流域には古くから伝わる、川にまつわる祭りや伝統行事がいくつもあります。
分水町の「おいらん道中」は、大河津分水工事を記念して植えられた3,000本の桜の木の下で催されます。祭りの始まりは、昭和8年4月に発足した「分水花路の会」が桜にちなんで計画したお祭りです。芸妓一人をおいらんに見立て、かむろ役と共に仮装してねり歩きました。観光客の評判もよく昭和11年から桜並木の下で賑やかに行われています。 長岡まつり
長岡まつりの花火は、戦災の犠牲者の追悼の花火でもあるのです。そのため、花火打上の際には、空襲警報が鳴らされます。 王神祭
十五夜まつり
踊り屋台・屋台囃子・民謡流し・花火大会・みこしパレード・町内一周駅伝大会・奉納演芸会と、楽しいイベントが目白押しです。なかでも見どころは、魚野川でのみこし流しです。みこしを川に流すのは全国的にも珍しく、みこしを担いだまま、魚野川の急流を水しぶきを上げて進む様は勇壮です。 |
3.信濃川の自然環境 |
"信濃川中流部は新潟・長野県境から小千谷市にかけては河岸段丘が、さらに下流には越後平野が広がる多様な地域環境であり、数多くの動植物が生息しています。新潟県に生息するほとんどの鳥類が確認できるほか、極めて貴重とされる注目種も多く生息しています。" |
河岸段丘から扇状地平野を流れる多様な自然環境 信濃川は、上流部を千曲川として、渓谷と盆地が繰り返されるなかで清流を合わせつつ流れ、また、下流部では信濃川と名を替え、河岸段丘を抜けると、広大な平野を緩やかに流れ、豊かな自然環境と良好な河川環境を有しています。 新潟県内に入るとまず、9段にも及ぶ大規模な河岸段丘が発達し、また、支川においては魚野川の渓流美とともに、清津川の清津峡に代表される渓谷美を誇っています。その後、広大な越後平野が開け、その上を信濃川がとうとうと流れます。その下流には大河津分水路があり、治水の重要性を語りかけています。信濃川流域は、日本海側特有の豪雪地域であり、その融雪により年間159億m3という日本で最も多い川の流れを創り出しています。信濃川は、厳しくも豊かな自然に囲まれ、全国屈指の米どころとして、また、清冽な水が育む酒どころとしても知られています。広大な河川敷には、その地域にある多様な自然が残されており、上流部にはハリエンジュ、アキグミの群落、下流部にはヤナギ、ヨシの群落が分布し、その変化に富んだ植生と、広い河川敷地が、アユ、ウグイ、オイカワ、サケといった魚類や、オオヨシキリ、ホオジロ、カシラダカなど、新潟県内の河川で見られるほとんどの鳥類が見られる豊かな自然を形成しています。信濃川流域には、国指定天然記念物である「オジロワシ」、環境庁や新潟県のレッドデータブックにおいて絶滅危惧種に指定されている「タコノアシ」(植物)、「ミヤマシジミ」(昆虫)、「ウケクチウグイ」「イトヨ」(魚類)など 珍しい動植物が見られます。
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4.信濃川の主な災害 |
"大河津分水路は、越後平野を水害から守るため、信濃川の洪水が越後平野に流れ込む前に日本海に流し出す人工的な河川です。大河津分水路の働きによってかつてのような水害がほとんどなくなり、美田が広がるとともに、高速交通網の整備も行われるなど、越後平野はめざましい発展をとげました。" |
信濃川で発生した主な洪水
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5.その他 |
越後平野に豊かな恵みをもらたす大河津分水路 大河津分水路は、越後平野を水害から守る目的で、信濃川の洪水が越後平野で暴れまわる前に日本海へ流し出す人工的な河川です。 越後平野はその昔海でした。それが、信濃川の運ぶ土砂によって沼地のような低い土地が少しずつ作られてきたのです。このような地形なのでひとたび洪水になると河川の水はすぐにあふれ田畑や家屋を流し、時には人々の生命まで奪いました。 大河津分水路完成までの歴史は古く、享保年間に寺泊町の本間屋数右衛門らの幕府への請願を発端に200年余り繰り返された請願がついに認められ、明治42年(1909年)に本格的な工事が始められました。工事が始まってからも大規模な地滑りの発生や通水後の自在堰(現在の可動堰の役割をしていたもの)の陥没などの困難を乗り越え、22年の歳月をかけ昭和6年(1931年)に完成しました。 大河津分水路がなかった時は、平均3~4年に1回起きていた信濃川の水害が大河津分水路の働きによって、ほとんどなくなり、その後の排水事業と土地改良によって美田が広がり、上越新幹線や北陸自動車道などの高速交通網の整備も行われたことにより、越後平野はめざましい発展をとげています。 特に昭和50年代後半には、越後平野のほぼ全域が浸かったであろうと考える幾つもの洪水から、越後平野を守っています。
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(注:この情報は2008年2月現在のものです)
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