入滅
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入滅(にゅうめつ)は、仏教用語で、滅度(めつど)・寂滅(じゃくめつ)ともいい、サンスクリットの「निर्वाण」(Nirvana、ニルヴァーナ)の訳、煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱のことである。
概要
「涅槃」「泥洹(ないおん)」などとも音写される。また、老荘思想の重要概念語「無為」と訳されることもある。よって、「入滅」とは、そのような境地に入ることをいう。
ただし、完全な解脱は肉体の完全な消滅、つまり「死」によって完結することから、「入滅」とは、宗教的に目覚めた人が死ぬことをも意味する。
一般に仏の死亡は入滅といい、高僧の死亡は遷化というが、特に宗祖の遷化を入滅と表現することもある。僧の死亡を入寂(にゅうじゃく)や示寂(じじゃく)ということもある。
関連項目
入滅
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正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日)、文観房弘真は河内国金剛寺大門往生院で入滅した。数え80歳の長寿だった。 律宗の高僧の享年を見ると、真言律宗の叡尊は90歳・忍性は85歳・信空は87歳で、融通念仏宗の導御(円覚上人)は88歳であり、律僧は概して長命の者が多いようである。 なお、これより少し前の閏7月16日には、将軍足利尊氏の護持僧として室町幕府と北朝を支えた東寺長者・醍醐寺座主の賢俊も入滅していた。奇しくも、南朝と北朝それぞれの仏教界の巨星が、全く同じ年に世を去ることになった。 その後の写本群で、金剛寺学頭の禅恵は自身を文観の「門弟随一」と誇らしげに記しており、この表現からすれば、入滅時点ではまだ文観には数多くの弟子がいたようである。しかし、その後の南朝の有力真言僧は記録の不明な者が多く、南朝の没落とともに、文観の学派は徐々に歴史から消えていくことになる。 文観が関わった現存最後の美術作品は、入滅2年前の正平10年/文和4年(1355年)1月17日に完成した大威徳転法輪曼荼羅(個人蔵)である。これは大絵師を称する法眼厳雅によって描かれ、文観が開眼供養を行って完成した作例である。大威徳転法輪法は降伏法であるため、正平一統後に京を逐われた後村上天皇による、対北朝の降伏法本尊としての意図もある可能性が、林温らによって指摘されている。表背上方の貼紙には「御開眼□□□□□□務前大僧正」とあり、完成後のある時点で、文観の名はおそらく故意に削り取られている。 南朝衰退後、北朝で書かれた軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)や宥快による仏教書『宝鏡鈔』(天授元年/永和元年(1375年))などの影響によって、文観は醜悪な妖僧という人物像が広まっていくことになった。文観の歴史的実像が解明され、名誉が回復されたのは、入滅後650年ほど経った21世紀初頭のことである。
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