功存
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功存 | |
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1720年 - 1796年10月23日 享保5年 - 寛政8年9月23日 | |
名 | 子成 |
号 | 霊山 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 本願寺派 |
寺院 | 越前平乗寺 |
師 | 慧鐺 |
弟子 | 智洞 |
著作 | 「願生帰命弁」 |
功存(こうぞん、1720年(享保5年) - 1796年10月23日(寛政8年9月23日)[1])は、江戸時代中期から後期にかけての浄土真宗本願寺派の学僧。越前の無帰命安心の糺明、明和の法論など多くの論争に関わる。西本願寺第6代能化。三業惑乱の遠因を作る。
概要
無帰命安心の糺明
1760年(宝暦10年)に同国平乗寺の住職となる。当時、越前浄願寺竜養の無帰命安心を異安心(異端)として糾して説得し、その際の問答を記録した『願生帰命弁』(がんしょうきみょうべん)を1764年(明和元年)刊行した。
明和の法論
明和の法論で功存は智洞らと共に学林派を代表して、智暹と本尊論について論争し、勝利を収める。1769年(明和6年)、西本願寺第6代能化に就任し、1796年10月23日(寛政8年9月23日)、77歳で死去した[1]。
三業惑乱
しかし功存の死後、第7代能化に就任した智洞が『願生帰命弁』を三業帰命説の根拠としたために三業惑乱が惹起し、最終的には江戸幕府寺社奉行の裁定により、同書もまた異安心に認定されるという皮肉な結果を招いた[3]。
注釈
- ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 阿部法夫「蓮如信仰の一考察(5)」『若越郷土研究』41-1(236)、福井県郷土誌懇談会、1996年1月、9-17頁、CRID 1390854882573751296、doi:10.24484/sitereports.121497-61560、hdl:10461/19788、ISSN 2185-453X。
- ^ 殿内恒, 井上善幸, 堀祐彰, 那須良彦, 藤田真証「功存『願生帰命弁』の本文研究(一) : 刊本の翻刻紹介」『佛教文化研究所紀要』第48巻、龍谷大学佛教文化研究所、2009年12月、112頁、CRID 1050571106587089664、hdl:10519/1482、ISSN 02895544、国立国会図書館書誌ID:10762725。
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