ごかんじょ【後漢書】
後漢書
後漢書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 05:24 UTC 版)
「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」 大秦の初出である。この後甘英はシリアにまで到達し、地中海を渡って大秦へ赴こうとしたが、パルティア人の船乗りに「大秦までは長ければ2年以上も航海せねばならず、長期間陸地を見ないために心を病んで亡くなる者さえいる」と言われたために大秦に行くことを諦めたとの記述がある。 但し、後漢書に先行する『三国志』魏書 烏丸鮮卑東夷伝末尾の裴松之による注記の『魏略』西戎伝には、班超が甘英を大秦に派遣したという記事はない。 「桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した。初めて(大秦と漢は)交流を持つことができた」 安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位161年 - 180年)、またはその先代皇帝であるアントニヌス・ピウス(在位138年 - 161年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられる。ただローマ側の史書には使者を派遣したという記述が見られず、また献上品もインドやアフリカの産物であることからローマ帝国の商人が皇帝の使者と偽って中国との貿易を企てたのではないかと考えられる(『後漢書』は献上物に特に珍奇なものはなかった、間違って伝えられたからではないかと書き記している)。なお、日南郡とは現在のベトナム社会主義共和国フエ付近に置かれていた後漢の郡である。
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