支石墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/03 14:29 UTC 版)
支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。
起源
支石墓という形態がもっとも早く発祥したのは、おそらく西ヨーロッパだったと考えられる。しかし、西ヨーロッパの支石墓が世界各地へ伝播したのではなく、それぞれの社会発展状況に応じて、全く別個に世界の各地域で支石墓が発祥したとする見方が非常に有力となっている。
ヨーロッパ
ヨーロッパでは、新石器時代から金属器時代初期にかけて支石墓が建造された。その建造範囲は西ヨーロッパにほぼ限定されており、主として大西洋・北海・バルト海沿岸に見られる。紀元前4000年-3000年頃の西ヨーロッパでは、支石墓などの巨石建造物に代表される巨石文化が興っているが、農耕の伝播との関連性を指摘する説が有力である。
紀元前6500年-4500年にかけてヨーロッパ全域に農耕が普及しているが、農耕の開始に伴い特に大西洋沿岸で人口増加が顕著となり、社会的不平等が生じた。そして、上級階層の墓制としてまず、土盛りの素朴な墓が発生し、そのうち巨大な支石墓へ発展したのだと考えられている。その後、紀元前3500年頃に巨大な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行しているが、このことは上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられたことを示唆している。最終的に紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅したとされる。
支石墓は、元来、小石などにより覆われていたが、現在ではその多くが風雨により流され、巨石が露出してしまっている。
西ヨーロッパに見られる支石墓は、ブルトン語でdolmen(ドルメン)という。フランス・ブルターニュ地方に多く見られたことから、当地のブルトン語で「石の机」を意味するdol menを語源としている。また、ウェールズ語に由来するcromlechと呼ばれることもある。ドイツ語ではHünengräber、オランダ語ではHunebedといい、いずれも巨人による築造を暗示する語である。
Hunebedは、ドルメンによく似た形式の石室墓で、新石器時代中期(Funnelbeaker文化)の頃に始まっている。Hunebedは、まず長方形の石室があり、その長辺の片側に羨道が設けられ、そして石室は楕円形の墳丘に覆われるとともに、その周囲に縁石が置かれた。より複雑な構造を持つものもある。
ドイツのメクレンブルクやポモージェでは、都市や町の建設の際に、建築や道路の材料として墓の巨石が使われ、多くのドルメンが失われた。それでもヨーロッパには数千基のドルメンが現存しており、フランスに4000基、イギリスに2000基、ドイツのリューゲン島だけで1000基以上が残されている。
ヨーロッパにおける支石墓の主な作り手は、ハプログループG2a (Y染色体)と考えられる[1][2]。
東アジア
中国大陸東北部 (旧満州) および山東半島から朝鮮半島北部 (北朝鮮) を経て、日本の九州北部を中心とした地域まで分布がみられる。[3][4][5]
朝鮮半島では紀元前500年頃(無文土器時代)に見られ、遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。北方式と南方式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域と半島東南地域である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、2000年には高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された。朝鮮半島の南部には、支石の低い碁盤状支石墓(南方式支石墓)があり、北部には支石が高い卓上支石墓(北方式支石墓)が分布している。
日本では中国浙江省の石棚墓群とよく似たものが縄文時代晩期の長崎県に出現しており(原山支石墓群や大野台支石墓群など)、同県のものに特徴的な屈葬や箱式石棺を伴う。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている。
- 詳細は弥生時代の墓制の項を参照。
その他の地域
中東
中東では、イラン高原やゴラン高原(現イスラエル)で支石墓が営まれたとされる。
インド
インドには古代の巨石遺跡が約4000箇所ほどあるが、明確に支石墓と見られるものは、紀元前1000年頃の南インドに出現した。
各地の支石墓
-
Ménardeix のドルメン (1920年ころ)
-
フランス、ブルターニュの ラ・ロッシュ=オー=フェ
-
イタリア、プッリャ州のドルメン、Chiancaのドルメン
-
イタリア、サルデーニャのドルメン、Sa Coveccada
-
フランス、 ポワトゥーのドルメン
-
ポルトガル、Paço das Vinhasのドルメン
-
ポルトガル、エヴォラのドルメン
-
チュニジア、ThibarのDolmen du Djebel Gorra
-
チュニジアのDolmen de Dougga
-
Vue intérieure vers l'entrée du dolmen de Gallardet(フランス)
-
アルジェリア、ゲルマのDolmen à Roknia
その他
脚注
- ^ Eupedia1
- ^ Eupedia2
- ^ “しせき-ぼ【支石墓】”. 日本国語大辞典. 小学館. "……中国の東北地方東南部から朝鮮半島北部に分布し、日本では縄文時代後期から弥生時代前・中期に九州北部を中心にこの種の遺跡がみられる。……"
- ^ “しせき-ぼ【支石墓】”. 大辞泉. 小学館. "……中国・朝鮮半島に多く、日本では縄文時代末から弥生時代の北九州にみられる。"
- ^ “しせき ぼ【支石墓】”. 大辞林. 三省堂. "中国の山東半島・東北部、朝鮮半島、日本の北九州に分布。"
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、支石墓に関するカテゴリがあります。
支石墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 14:49 UTC 版)
詳細は「支石墓」を参照 日本の支石墓(しせきぼ)は、数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる碁盤式の墓である。 日本では、縄文時代晩期の九州北西地域に出現する。当時、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強い影響があったものと考えられている。 主に松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広まった。支石墓直下の埋葬方式としては、土壙墓・甕棺墓・石棺墓など様々な形態がとられていた。 最も古い支石墓は、唐津市東宇木にある葉山尻支石墓で、五基ある。天井石は長さ2メートル前後の巨石である。その支石墓から弥生時代前期の打製石鏃(せきぞく)が一つ出土している。 朝鮮半島の影響を考慮すると、支石墓の被葬者は半島からの渡来人であると想定されている。 支石墓は、弥生時代前期のうちに北部九州から消滅していったが、その周辺の五島列島や愛媛県などへ、ごく限定的ながらも伝播していった。
※この「支石墓」の解説は、「弥生時代の墓制」の解説の一部です。
「支石墓」を含む「弥生時代の墓制」の記事については、「弥生時代の墓制」の概要を参照ください。
支石墓と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 支石墓のページへのリンク