政権掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 22:46 UTC 版)
「ムアンマル・アル=カッザーフィー」の記事における「政権掌握」の解説
1969年9月1日、カッザーフィーは同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを起こし、政権を掌握した。病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は廃位されて王政は崩壊、カッザーフィー率いる新政権は共和政を宣言して国号を「リビア・アラブ共和国」とした。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命指導評議会(日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた)が共和国の最高政治機関となることが宣言された(カッザーフィーが革命指導評議会議長と公表されたのは翌年)。 カッザーフィーは1973年より「文化革命」を始め、イスラームとアラブ民族主義と社会主義とを融合した彼独特の「ジャマーヒリーヤ」(直接民主制と訳される)という国家体制の建設を推進していった。翌年には「政治理論の研究に専念するため」として革命評議会議長職権限をナンバー2のジャルード少佐に委譲した(あくまで権限移譲であり、退任はしなかった)。1976年には毛沢東語録に倣い、自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版した。緑とは、イスラームのシンボルカラーで、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を象徴する。そして1977年、カッザーフィーは人民主権確立宣言を行い、「ジャマーヒリーヤ」を正式に国家の指導理念として導入した。これにより、国号も「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」(1986年に「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と改称)に改められた。ジャマーヒリーヤ体制のもと、国権の最高機関として全国人民会議が設置され、カッザーフィーが初代全国人民会議書記長(国会議長職に相当し国家元首としての権能も有した)に就任した。その後カッザーフィーは1979年に全国人民会議書記長を辞任して一切の公職を退いたが、「革命指導者」の称号のもと、実質上の元首としてリビアを指導した。
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