柴田勝家の越前刀行政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 07:43 UTC 版)
柴田勝家の農民の刀と武装に対する行政は、後の豊臣政権の刀狩とは意図や内容を異にしており、寺社と農民の武装を前提に、寺社と門徒を中心に武器の増減を行い、反本願寺派や織田家の縁社の武力を高め、元一揆側の刀を減少させることで地域に区別を明確にさせるとともに、元一揆側の力を削ごうとしている。越前一向一揆の総大将で事実上の守護の下間頼照を織田軍が攻め、落城の際に逃亡するところを発見し討ち取った反本願寺派の真宗高田派の寺院と門徒に対しては、逆に武装を奨励している。1575年(天正3年)10月、真宗高田派の坂井郡黒目の称名寺に、門徒の地域の黒目村他4村に腰刀・武具での武装を命じ、翌1576年(天正4年)5月には同派の専修寺門徒にも同様の「兵具を備えて忠節を尽くすよう」指令している。同時期に同派の大野郡折立の称名寺には、より踏み込み「購入してでも帯刀するよう」指示している。 その一方で、総員13万8千余人の越前一揆のうち丹生郡と越前海岸辺は約3万5千人を出したが、同年(天正4年)1月に丹生郡織田の寺社と関係者に対して、知行により刀の数量を決めて提出させる指令を出した。寺社は、知行に対する課役ととらえ、以前より知行高に対する諸役は免除されていることを理由に免除を願っている。 その中で、信長の先祖が神官で氏神で関係の深い織田神社へは対応が違い、領安堵の文書に、神社関係者に「刀さらへ」を免除するとした。これは後代に、江戸時代元禄期作の『明智軍記』に壮大に誇張して書かれ「九頭竜川に、刀狩の刀剣を溶かし鎖を作り船橋を渡した」という「船橋伝説」や「農具を製作した」などの説話が創作され、柴田神社に鎖が展示されるが、根拠は無い。(以上本節)
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