楽綝
楽綝は剛毅果断にして父親同等の風格を備えており、父が亡くなるとその家業を継いだ《楽進伝》。 正元二年(二五五)正月、鎮東大将軍毌丘倹・揚州刺史文欽が反乱を起こしたので、二月、大将軍司馬師が歩騎十万人余りを率いてその鎮圧に当たることになった。文欽の子文鴦が騎兵十人余りとともに突出してきたため、司馬師は引き下がり、左長史司馬璉に騎兵八千を授けて背後を襲わせ、将軍楽綝らに歩兵を預けてそれを援護させた。沙陽に到着するなり文欽陣営は陥落し、文欽父子は旗下を連れて呉へと亡命した《晋書景帝紀》。 甘露二年(二五七)五月、鎮東大将軍諸葛誕が中央に徴されて司空に任命されたが、諸葛誕は「我が三公になるのは王文舒の次のはずだ。しかも使者を出さずに兵士に辞令を届けさせているし、軍勢を楽綝に委ねよと言うておる。これは楽綝の仕業だろう」と考え、側近数百人を連れて揚州(の役所)へ押し寄せた《諸葛誕伝》。 同月六日、揚州刺史楽綝は城門を閉ざしたが、諸葛誕は南門から「洛邑へ帰るついでに散歩しておるだけなのに、なぜ門を閉ざすのかね?」と言いながら東門に回った。兵士に城壁を登らせたり城門を攻めさせたりしたので、城兵はみな逃げ去った。諸葛誕が番人を叱りつけて門をくぐったので、楽綝は城郭の矢倉に逃げこんだが、結局、斬られてしまった《諸葛誕伝》。 諸葛誕はこのとき、上表して「楽綝は嘘ばかり言っていて、臣が呉とやり取りをしているとか、詔勅により臣の後任になったなどと申しました。それゆえ臣は国家の命令を奉じ、今月六日に楽綝を討伐し、その日のうちに斬首いたしました次第です」と述べている《諸葛誕伝》。 帝は詔勅により哀悼の辞を述べ、衛尉の官職を追贈し、愍侯と諡した《楽進伝》。 【参照】王昶(王文舒) / 楽進 / 楽肇 / 毌丘倹 / 司馬師 / 司馬璉 / 諸葛誕 / 曹髦(帝) / 文俶(文鴦) / 文欽 / 衛公国 / 呉 / 沙陽 / 揚州 / 陽平国 / 雒陽県(洛邑) / 衛尉 / 左長史 / 司空 / 刺史 / 大将軍 / 鎮東大将軍 / 愍侯 / 諡 |
楽綝
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楽綝 | |
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魏 広昌亭侯・揚州刺史 | |
出生 | 生年不詳 兗州陽平郡衛国 |
死去 | 甘露2年5月5日(257年6月4日) 揚州九江郡寿春 |
拼音 | Yuè Chēn |
諡号 | 慰侯 |
主君 | 曹操→曹丕→曹叡→曹芳→曹髦 |
楽 綝(がく りん / がく ちん[1]、? - 甘露2年5月5日(257年6月4日))は、中国三国時代の魏の軍人・政治家。父は楽進。子は楽肇。楽進伝・諸葛誕伝にその名が見える。
人物
生涯
楽進の存命中に所領の一部が分け与えられ、列侯されたとの記述があるが、これが楽綝なのかどうかは不明である。武勇に秀でた剛毅果断な人物で、父に劣らぬ人物として高く評価された。
255年、文欽らの反乱追討(毌丘倹・文欽の乱)に功績があり揚州刺史まで昇進したが、257年6月4日、疑心暗鬼に陥った諸葛誕に司馬氏の与党と見做されたため、その軍勢に攻められて戦死した(諸葛誕の乱)。諸葛誕は楽綝の非を上奏したものの、その行為は反逆と見做され討伐されることになった。楽綝には衛尉と慰侯が追贈された。子が爵位を継いだ。
物語中の楽綝
小説『三国志演義』では名将の息子同士ということからか、張遼の子の張虎とペア扱いにされ、蜀漢との戦いで敗北を重ねるやられ役の凡将として描かれている。最期については史実とほぼ同様の顛末を辿る。
参考文献
脚注
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