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毛盛とは? わかりやすく解説

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毛盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 02:01 UTC 版)

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毛 盛(もう せい、生年不詳 - 392年)は、五胡十六国時代前秦軍人は不明。出身は不明。前秦の勢力拡大に貢献したが、最期は後秦姚興によって殺された。

生涯

前秦に仕え、鎮軍将軍に任じられていた。

365年7月、右賢王曹轂・左賢王劉衛辰が前秦に叛旗を翻して挙兵した。2万の兵を率いて南下しながら、各郡県を攻撃、馬蘭山に駐屯した。前秦の天王苻堅は、前将軍楊安・毛盛らに前鋒都督に任じ、曹轂討伐に向かわせた。

曹轂は弟の曹活を向かわせ、両軍は同官川で戦った。前秦軍は曹活及び4千の兵を討ち取る大勝をおさめた。曹轂はこれに恐れ、前秦に降伏した。進んで曹轂・劉衛辰に呼応した索虜の烏延を討ち取った。

376年5月、左将軍に任じられていた毛盛は、武衛将軍苟萇・中書令梁熙・歩兵校尉姚萇らと共に13万の兵を率いて前涼討伐に向かった。

378年7月、右禁将軍に任じられていた毛盛は、兗州刺史彭超・後将軍倶難・陵江将軍邵保らと7万の兵を率いて、淮南攻略に向かった。

379年5月、右将軍毛当と共に2万騎で堂邑を襲撃した。東晋の右衛将軍毛安之らは驚き、軍は潰滅した。

7月、平東将軍・兗州刺史に任じられ、胡陸に鎮した。

384年6月、天王苻堅は自ら歩騎2万を率いて後秦討伐を行った。鎮軍将軍に任じられていた毛盛は護軍将軍楊璧・左将軍竇衝・右将軍徐成らと共に従軍し、幾度も後秦軍を破り、ついには後秦軍の水の手を断った。戦いは前秦優勢で進んだが、後秦が盛り返し、天王姚萇が7万の兵で攻撃を仕掛けた。毛盛らは応戦するが敗れ、楊璧・徐成ら数十人と共に捕らわれた。姚萇は毛盛らを丁重に釈放した。

時期は不明であるが、後秦に降伏した。

392年3月、皇帝姚萇は病床にあり、皇太子姚興は姚萇のもとに向かうことにした。その際、征南将軍姚方成は、毛盛らの排除を進言した。姚興はこれに従い、毛盛・王統王広・苻胤・徐成を殺害した。

人物・逸話

徐成らの殺害を知った姚萇は「徐成らは前朝の名将だった。私はいずれ彼らを用いようとしていたのに、何故殺してしまったのか!」と怒った[1]

脚注

  1. ^ 『資治通鑑』巻108

参考文献

関連事項




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