河村保彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/11 08:39 UTC 版)
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 岐阜県多治見市 |
生年月日 | 1940年7月15日 |
没年月日 | 2012年2月21日(71歳没) |
身長 体重 | 177 cm 69 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1959年 |
最終出場 | 1971年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について |
河村 保彦(かわむら やすひこ、1940年7月15日 - 2012年2月21日)は、岐阜県多治見市[1]出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
経歴
多治見工業では2年次の1957年からエースとして活躍し、同年には夏の甲子園予選三岐大会で決勝に進出する。岐阜商の清沢忠彦と互いに無失点で投げ合うが、9回裏に決勝点を許しサヨナラ負けを喫する。3年次の1958年は甲子園に春夏連続出場を果たし、春の選抜では2回戦(初戦)で、後にプロで同僚となる熊本工の成田秀秋と投げ合い0-1で惜敗[2]。夏の選手権も1回戦で姫路南高に敗れる[3]。
卒業後の1959年、中日ドラゴンズに入団[1]。同期の投手には成田をはじめ、板東英二、水谷寿伸、伊藤竜彦(野手転向)らがいた。1961年に13勝を挙げ、初めて規定投球回(10位、防御率2.53)に達する。その後も主力投手として活躍し、1963年には開幕投手に抜擢され19勝14敗、防御率2.68(6位)の好成績を挙げた[1]。1964年も開幕投手となったが同年は7勝10敗、シーズン毎の好不調の波が激しく、監督泣かせの投手であった。マリオネットのような直線的な投球フォームが特徴で、カーブ、スライダー、シュート、シンカー、フォークと主要球種はすべて投げたほか、フルカウントになることが多かった。1966年は6月5日から1か月以上勝ち星から遠ざかったこともあって、験担ぎのつもりで同年7月15日の自身の誕生日に登録名を「河村達彦」に変更[4]。1968年、サンケイアトムズに徳武定之との交換トレードで移籍[1]、同時に登録名を河村保彦に戻す[5]。当初は中継ぎ要員であったが、次第に調子を上げて先発に回り9勝7敗、防御率2.42(5位)を記録する。1969年は開幕投手となり、投手陣の柱として期待されたが僅か1勝に終わる。1971年限りで引退。
引退後はヤクルト一軍投手コーチ(1972年)を経て、名古屋市緑区梅里でバッティングセンター経営の傍ら、フジテレビ・東海テレビ(1973年 - 1984年)→東海ラジオ「ガッツナイター」(1985年 - 1992年, 1995年)、MTV「三重テレビナイター」(1985年 - 1992年, 1995年)、NHK名古屋放送局・中日スポーツ(1996年 - 2012年)で解説・評論を務めた[1]。フジテレビ解説者時代にはニュース番組「FNNニュースレポート6:00→FNNスーパータイム」のスポーツコーナーを担当し、ソフトな語り口で人気があった。解説業の合間を縫って、ヤクルト一軍投手コーチ(1993年 - 1994年)に復帰し、1993年のリーグ優勝・日本一に貢献[1]。晩年はプロ野球マスターズリーグの名古屋80D'sersでも活躍した。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1959 | 中日 | 39 | 9 | 2 | 0 | 0 | 4 | 7 | -- | -- | .364 | 405 | 98.1 | 90 | 8 | 24 | 1 | 3 | 66 | 3 | 0 | 42 | 39 | 3.55 | 1.16 |
1960 | 40 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | -- | -- | .333 | 306 | 67.0 | 74 | 3 | 31 | 1 | 4 | 38 | 4 | 0 | 40 | 32 | 4.30 | 1.57 | |
1961 | 51 | 21 | 1 | 1 | 0 | 13 | 13 | -- | -- | .500 | 904 | 223.2 | 181 | 8 | 81 | 2 | 5 | 130 | 3 | 0 | 73 | 63 | 2.53 | 1.17 | |
1962 | 35 | 11 | 4 | 3 | 1 | 4 | 5 | -- | -- | .444 | 494 | 122.0 | 101 | 9 | 35 | 4 | 3 | 66 | 6 | 0 | 45 | 41 | 3.02 | 1.11 | |
1963 | 56 | 21 | 8 | 1 | 0 | 19 | 14 | -- | -- | .576 | 996 | 245.0 | 191 | 21 | 89 | 7 | 4 | 119 | 2 | 0 | 89 | 73 | 2.68 | 1.14 | |
1964 | 36 | 14 | 5 | 1 | 0 | 7 | 10 | -- | -- | .412 | 590 | 141.1 | 120 | 19 | 63 | 1 | 3 | 74 | 4 | 1 | 65 | 60 | 3.83 | 1.29 | |
1965 | 38 | 16 | 3 | 1 | 0 | 4 | 8 | -- | -- | .333 | 507 | 123.2 | 106 | 12 | 39 | 3 | 1 | 69 | 2 | 1 | 57 | 47 | 3.41 | 1.17 | |
1966 | 39 | 22 | 6 | 0 | 0 | 10 | 7 | -- | -- | .588 | 641 | 158.0 | 134 | 14 | 53 | 4 | 4 | 88 | 2 | 0 | 63 | 56 | 3.19 | 1.18 | |
1967 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 63 | 14.1 | 15 | 6 | 7 | 0 | 1 | 8 | 0 | 0 | 7 | 7 | 4.50 | 1.53 | |
1968 | サンケイ アトムズ ヤクルト | 40 | 16 | 5 | 1 | 0 | 9 | 7 | -- | -- | .563 | 591 | 149.1 | 111 | 13 | 46 | 1 | 2 | 97 | 3 | 0 | 45 | 40 | 2.42 | 1.05 |
1969 | 34 | 12 | 1 | 0 | 0 | 1 | 9 | -- | -- | .100 | 398 | 92.1 | 91 | 17 | 39 | 1 | 2 | 40 | 3 | 0 | 59 | 52 | 5.09 | 1.41 | |
1970 | 29 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | -- | -- | .286 | 269 | 63.2 | 67 | 7 | 28 | 2 | 1 | 34 | 1 | 0 | 32 | 32 | 4.50 | 1.49 | |
1971 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 2 | 0.0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | |
通算:13年 | 444 | 152 | 35 | 8 | 1 | 74 | 88 | -- | -- | .457 | 6166 | 1498.2 | 1283 | 137 | 535 | 27 | 33 | 829 | 33 | 2 | 617 | 542 | 3.25 | 1.21 |
- サンケイ(サンケイアトムズ)は、1969年にアトムズに、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更
記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1963年)
背番号
- 16 (1959年 - 1960年)
- 28 (1961年 - 1967年)
- 13 (1968年 - 1971年)
- 65 (1972年)
- 74 (1993年 - 1994年)
登録名
- 河村 保彦 (かわむら やすひこ、1959年 - 1966年7月14日[4]、1968年 - 1972年、1993年 - 1994年)
- 河村 達彦 (かわむら たつひこ、1966年7月15日[4] - 1967年)
関連情報
出演番組
報道番組
期間 | 番組名 | 役職 | 担当日 | |
---|---|---|---|---|
1982年11月1日 | 1984年9月26日 | FNNニュースレポート6:00(フジテレビ) | スポーツキャスター | 月~水曜日 |
1982年11月5日 | 1985年3月31日 | FNNニュースレポート5:30(フジテレビ) | 日曜日 | |
1984年10月1日 | 1985年3月27日 | FNNスーパータイム(フジテレビ) | 月~水曜日 |
報道・情報番組以外
- ラジオ関東バッチリ・ナイター(ラジオ関東のナゴヤ球場への乗り込み自社制作分を担当)
- NHKプロ野球
脚注
- ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、176ページ
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ a b c よみがえる1958-69年のプロ野球 別冊ベースボール Part9 1966年編(ベースボール・マガジン社、2024年5月刊)52頁
- ^ 日本プロ野球背番号物語:1934-2014球団別全背番号年表 (B・B MOOK 1048)(ベースボール・マガジン社、2014年4月刊)149頁
- ^ “プロ野球の元投手、河村氏死去 中日などで活躍”. 共同通信. (2012年2月22日) 2012年2月22日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 河村保彦 - NPB.jp 日本野球機構
期間 | メインキャスター | スポーツキャスター | お天気 キャスター | |||||||||
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アンカーマン | アシスタント | 進行 | アシスタント | |||||||||
月 - 金曜日 | 土 - 日曜日 | 月 - 木曜日 | 金曜日 | 土 - 日曜日 | 月 - 水曜日 | 木・金曜日 | 土 - 日曜日 | 月 - 金曜日 | 月 - 金曜日 | 土 - 日曜日 | ||
1984年10月1日 | 1985年3月29日 | 逸見政孝1・2 | なし | 幸田シャーミン3 | なし | 河村保彦1 | 江本孟紀 | なし | なし | (下記参照) | なし | |
1985年4月1日 | 1986年3月30日 | 陣内誠4 | 城ヶ崎祐子 | 長田渚左 | 森末慎二5 | 川端健嗣 | 逸見政孝 | (メインが兼務) | ||||
1986年3月31日 | 1986年9月28日 | 三宅正治 | ||||||||||
1986年9月29日 | 1987年3月31日 | 山中秀樹4 | ||||||||||
1987年4月1日 | 1987年9月30日 | 幸田シャーミン3 | 野間脩平 | 永麻理 | ||||||||
1987年10月1日 | 1988年3月31日 | 野間脩平 | 安藤優子 | 笠井信輔 | ||||||||
1988年4月1日 | 1988年7月9日 | 黒岩祐治 | 安藤優子3 | 小田多恵子 | 筒井櫻子 | |||||||
1988年7月10日 | 1989年4月2日 | 塩原恒夫 | ||||||||||
1989年4月3日 | 1989年9月30日 | 上田昭夫 | 有賀さつき | 上田昭夫 | ||||||||
1989年10月1日 | 1990年7月1日 | 木幡美子 | ||||||||||
1990年7月2日 | 1990年9月30日 | 八木亜希子6 | 吉田伸男 | |||||||||
1990年10月6日 | 1991年3月31日 | 田代尚子 | ||||||||||
1991年4月1日 | 1992年3月31日 | 黒岩祐治 | 小林穂波 | 松井みどり | 黒岩祐治 | |||||||
1992年4月1日 | 1993年9月26日 | 露木茂7 | 山中秀樹8 | 吉崎典子9 | 大坪千夏 | 安藤優子 | ||||||
1993年9月27日 | 1994年3月31日 | 近藤サト | 佐藤里佳 | 岩谷忠幸 | ||||||||
1994年4月1日 | 1994年9月30日 | 松山香織3 | 上田昭夫 | 中井美穂 | ||||||||
1994年10月1日 | 1995年10月1日 | 山形斉子 | 岩谷忠幸10 | |||||||||
1995年10月2日 | 1995年12月3日 | 菊間千乃 | 八木沼純子10 | |||||||||
1995年12月4日 | 1996年3月31日 | 濱田典子 | ||||||||||
1996年4月6日 | 1997年3月30日 | 富永美樹10 | ||||||||||
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固有名詞の分類
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