百済独自年号説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:54 UTC 版)
1963年(昭和38年)、金錫亨は「分国論」を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで「泰和」を百済独自の年号とした。この説はその後も李丙燾らによって踏襲され、また延敏洙は別の文字「奉■」と判読し、おなじく百済独自の年号とした。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された。「泰和」を百済独自の年号とする場合は、2005年(平成17年)時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし、また李丙燾は、『日本書紀』の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に「泰△元年」を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになるが、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない。延敏洙は武寧4年(504年)とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない。 2009年(平成21年)、洪性和は七支刀について百済の腆支王(在位405〜420年)が408年11月16日に跡継ぎ(久爾辛王)の誕生で初めて作り、409年に使臣を通じ倭王に渡されたものと主張した。 11月16日丙午という具体的な日付と干支が現れているため、4-6世紀で11月16日が丙午の干支に当たる日を探すと、腆支王4年(408年)になる。この見方によると、泰○を百済の独自年号とみなす。高句麗と新羅も年号を使った事実があり、当時高句麗と戦った百済漢城時代に独自年号を使った可能性が提起された。腆支王は太子であった時期に倭国に行った経験があり、倭国の女性と結婚して久爾辛王を産んだので、この時、七支刀が百済から倭王に伝わったものと分析した。
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