良寛に会うために木村家を訪問(文政十年春 四月十日頃 30歳)
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「貞心尼」の記事における「良寛に会うために木村家を訪問(文政十年春 四月十日頃 30歳)」の解説
貞心尼は、良寛に会うために、文政十年四月十日前後に初めて木村家を訪れ、卯月十五日附の手紙を木村家に出している。 何かたにか御座なされ候やらん やがてまたあつき時分は御かへり遊さるべくと存じ候へば どふぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候 わたくしもまづ当分柏崎へはかへらぬつもりにて さえわひ此ほどふくじまと申ところにあき庵の有候まヽ 当分そこをかりるつもりにいたし あとの月より参りおり候 されどへんぴのところよへ便り遠に候まゝ もし御文下さるとも良い他のあぶらや喜左衛門様まで御出しくだされば 長岡まで日々便り有候まゝさやうなし被下度候 何事もまた御めもじのふしゆるゆる申上べく まづは御礼までにあらあらめで度く かしく 卯月十五日 貞心 のとや元右衛門様 御うち殿御もとへ ※著者堀桃坡が述べているように、この書簡は文政十年四月のものと思われる。前半が欠けているようだが、「何かたにか御座なされ候やらん」とある人物は、良寛を指しているのではあるまいか。良寛は四月、すでに密蔵院へ入っていたわけだ。また貞心尼は、「あとの月より参りおり候」と記しているので、三月から長岡在福島の閻魔堂へ移ったようだ。それまでは柏崎在下宿(しもじゅく)で、尼僧同志の共同生活を続けていた。 — 谷川敏朗 、『良寛 伝記・年譜・文献目録』1980, p. 400 「何かたにか御座なされ候やらん、やがてまたあつき時分は御かへり遊さるべくと存じ候へば、どふぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候。わたくしも、まづ当分柏崎へはかへらぬつもりにて、さえわひ此ほどふくじまと申ところにあき庵の有候まヽ、当分そこをかりるつもりにいたし、あとの月より参りおり候(下略)」 の、能登屋元右エ衛門方へ宛てた卯月十五日附の書簡は前文欠というが、(堀桃坡前掲書)この書出しは良寛禅師の動静を伝えたものに相違なく、そうだとすれば、島崎に移った翌年のこととなり、あとの月、即ち文政十年三月に福島えんま堂に移るや否や直に島崎に訪庵したのであろう。〔中略〕良寛は文政九年十月九日、島崎遷居を阿部定珍に報じ、翌年夏(四月早々であろう)寺泊照明寺密蔵院に寓居したことを再度定珍に通知している。したがって前記詞書の(1)の出会い前の手まりの贈答歌は、林甕雄本「良寛禅師歌集」の付箋に「この贈答の歌は貞心尼が良寛禅師をとひけるに、おはしまさヾりけれバ、手まりにこれやこの歌をそへて残しおきける。師後につきてみよの歌をかへし玉ふと遍澄師いふ」とあるように、密蔵院仮寓の不在中の出来事であった。 — 宮 栄二 、「貞心尼と良寛 : 関長温との離別説」『越佐研究』40, 1980 ところで、木村家へ宛てた貞心の手紙によると、四月十日前後に貞心は、木村家を訪問したらしい。良寛に会うためだった。しかし残念なことに、良寛はすでに密蔵院へ移っていたので、貞心はむなしく帰らざるを得なかった。その手紙の中で貞心は、「やがてまたあつき時分は御かへり遊さるべくと存じ候へば、どふ(ママ)ぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候」と述べ、さらに「もし御文を下さるとも与板のあぶらや喜左衛門まで御出くだされば、長岡まで日々便り有候まゝ、さやうなし被下度候」と、良寛が帰庵したならば知らせてくれるように、それとなく依頼している。婉曲な態度の中にも、貞心の熱意が感じられる。 — 谷川敏朗 、「良寛と貞心尼のこころ」『良寛と貞心 その愛とこころ』1993, pp. 20~21 富沢信明 新潟大学名誉教授が、良寛と貞心尼の出会いを文政10年秋であることを裏付ける良寛直筆の書を2011年(平成23年)9月上旬に発見した。 貞心尼が良寛を最初に訪ねた時には、良寛は旧寺泊町(長岡市)にある照明寺の密蔵院に滞在していて会えず、その後初めて会えたのは26年か27年頃で、場所は旧和島村(同)の木村家だったとされていた。良寛が密蔵院にいた時期が分かれば、貞心尼と初めて会ったのがいつかについて特定できるが、分からないままだった。 富沢さんが見つけたのは、「観音堂の脇(密蔵院)の庵(いおり)で‥‥‥」で始まる漢詩を含む良寛直筆の遺墨。〔中略〕漢詩のほかに、短歌が2首書かれており、紙の冒頭に「亥夏作」とあることから、亥年(いのししどし)の夏に詠まれたことが分かった。短歌は1825年(文政8年)~1829年(文政12年)頃の作品とされていたが、この間の亥年は27年(文政10年)しかないため、漢詩が詠まれたのは27年夏で、この時期には密蔵院にいたと特定した。さらに初対面の2人が詠みあった歌で、良寛が秋の夜の寒さについて詠んでいることから、2人が会ったのは秋だったとみられる。良寛は28年夏は木村家にいたことが別の史料でわかっているため、富沢さんは「貞心尼と良寛の初対面は27年秋だった」と結論づけた。 — — 、読売新聞朝刊 新潟南12版、2011年10月26日
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