MSWA
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 15:23 UTC 版)
長年に渡ってトライステート地区のブッカーを務めてきたワットだが、1979年にボスのマクガークと衝突。NWAを脱退し、ルイジアナの興行権を買収してミッドサウス・エリアに独立団体MSWA(Mid-South Wrestling Association)を新設する。ミシシッピとアーカンソーもテリトリーに加え、トライステートのほとんどの選手がMSWAにスライド移籍するなど、事実上マクガークのプロモーションを乗っ取った形となった。 マクガークはタルサを中心に興行を続けていたものの苦戦が続き、1982年にはオクラホマの興行権をワットに譲渡。これにより旧トライステートを完全に吸収合併したワットは、テキサスのプロモーターだったポール・ボーシュ(英語版)とも手を組んでヒューストンにも進出。興行の拠点としてニューオーリンズのルイジアナ・スーパードームで定期的にビッグイベントを開催するなど、活動の規模をさらに拡大した(NWA加盟団体ではなくなったものの、後にNWA世界王者リック・フレアーを招聘しており、その手腕はNWAの主流派にも注目されていた)。 1984年、WWFのビンス・マクマホンが全米侵攻をスタートさせ、各地のプロモーションは軒並み大打撃を受けることになる。しかし、トライステート時代から築いてきたミッドサウスにおける強固なマーケット基盤のもと、AWAやNWA傘下ではない独立テリトリーとして独自の活動を続けてきたMSWAは、WWFに屈することはなかった。 1985年、MSWAの人気に目をつけたテッド・ターナーとTBSにおけるプロレス番組の放送契約を締結。日曜の午後という時間帯ながら番組は高視聴率を上げ、ターナーとワットは1984年7月14日のブラック・サタデー以来WWFが時間枠を持っていた土曜夜の放送への移行に合意するが、当時WWFに在籍していたジム・バーネットの仲介により、マクマホンはNWAのジム・クロケット・ジュニアに土曜夜の時間枠を100万ドルで売却。最終的にTBSはジム・クロケット・プロモーションズと契約を結んだ。
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