自分が10~20代の頃に、両親がパソコンを使えない、ケータイでメールが出せない、スマホが使えない、という姿を見ていて漠然と「そんなもんか」と思っていたけれど、自分自身が30代半ばになってちょっとその感覚が分かる気がしてきた。
「年老いてくると単に理解力が下がる」のような個人の能力の問題かと特に深く考えずにイメージしていたけれど、そう単純じゃない気もしている。「自分には必要ない」と思って「新しく出てきた何か」に適応するのをしばらくサボっていると、いきなり従来利用してきたものが消滅して途方に暮れる。出てきた当初からちょっとずつ適応していれば、(スロープとまでは言わないにしても)階段を少しずつ上っていくように習得できても、いきなりその階段も消滅して目の前に崖が現れる。崖を登ろうとちょっと試みてみるけれど、無理すぎて諦めざるを得なくなる。
iPhoneというかiOSも、最初に出てきたときはアイコンや色んな箇所がはっきり「ボタン」っぽいデザインだったりして分かりやすかったような気がする。みんなが慣れてきて「だいたいここは押せる箇所」という共通認識が広がってくると、もう物理的なボタンっぽい見た目をやめてただの絵のようになってしまう。そこから参加した人にとっては、どこが押せる箇所で、どこは押せない箇所なのかが分からなくなる。
「ログインしている状態」といった概念も、当たり前になると何の疑問もないけど、実は結構難しいんじゃないか。
金敬哲著『韓国 行き過ぎた資本主義』ではオンラインサービスに適応できずに割を食う高齢者の実情をいくつか紹介しているが、その中でネットバンキングを使えない人が「パスワードを入れる箇所も多く複雑で、目も良くないので画面が小さくて文字が読めない」と語っている。ネットバンクの普及で銀行の実店舗が減ってしまったせいで、そこに高齢者が集中して待ち時間が長大になった上、手数料もネットバンクの3倍かかる。それは「年寄り手数料」と揶揄されるという。
何度もパスワードを入れる箇所があって意味がわからないというのも、ログインするためのパスワード、振込む際のパスワードなど種類の違うものがいくつも用意されていて、その意味が分かっていれば特に混乱もしないけれど、そこがわからないとどのパスワードをどのタイミングで入れればいいのか分からない。
単にATMを使うだけなら、「キャッシュカードを入れる」がログインに相当するのかもしれない。ただこの類比ができるのも、そもそもログインが「私が誰か」をシステム側に知らせて、今使っているユーザーとシステムが持っている私の情報を紐付けさせているのだ、という理解があるからできるだけのことだ。「カードを入れること」と「画面に顧客番号とパスワードを入れること」というまるで別の行為がイコールなのだと言われても、背景のロジックが分からないと難しい。
「だってATMではカードを入れてもパスワードなんか入れてないじゃないか」とか「ATMなら暗証番号4桁だったのに何でワンタイムパスワードとか難しいことさせるんだ」と言われたとして、人が端末にカードを入れる、指で画面にボタンを押す、といった物理的な行為がセキュリティの一部を担保していたからという説明になるのかもしれないけれど、これも実店舗やATMとネットバンキングを「実際の行為」ではなく「意味」で構造化して対比しないと理解するのが難しい話になっている。
「タイムアウトしたのでログアウト状態になったからもう一度ログインするためにパスワードの入力を求められる」みたいな状況も、「ログイン状態」という概念を理解していないとかなり意味不明になる。(それでもう意味で理解するのは諦めて言われるがままに入力していると詐欺に狙われたりもする。)
これももっと単純なウェブサービスやネットゲームを体験した上でネットバンキングを始めたなら、「オンラインサービスは普通はこう」という認識の上に「銀行サービスは普通こう」という認識を上乗せすれば理解できる。でもいきなり必要に迫られて始めた人にとっては「オンラインサービスは普通こう」の認識を獲得するところから始めないといけないけれど、ネットバンキングはそのチュートリアルを用意する場ではなく、ネットサービスの共通理解をベースにしてそこは端折っているから理解するのが難しくなる。
『韓国 行き過ぎた資本主義』では他に、公共交通機関のチケット販売がオンライン化されて、駅の窓口に来ても買えなくて若者が予約席に座って高齢者が立ち席に乗っているとか、ファストフード店がセルフ注文機になって上手く注文できないといった状況が描かれている。そこで紹介されていたおじいさんはもともと電気のエンジニアで若い頃は海外(中東)でも働いていたという。知的水準が低いために対応できないというより、「置いていかれた」という感じだろう。
自分がいつも利用する映画館には紙で上映時間のスケジュール表が貼ってあって、その前に立って手許の手帳かメモ帳に書き写している高齢者を時々見かける。自分がネットで映画のチケットを買うようになったのは2012年からで、自分にとってはもう慣れて当たり前になっていることでも、手で上映スケジュールを書いている人を見ると、そういえば昔は新聞に映画館の上映時間が載っていて、それをチェックして現地に行って券を買ってたんだってことを急に思い出す。今はもう新聞には載ってないんだろうか。費用対効果がなければやらなくなってしまうのはしょうがない。もし完全にオンライン販売だけに切り替わって窓口がなくなってしまったら、表を見てメモして窓口に行っていた人たちはもう映画館に来るのをやめてしまうんだろうか。その人たちに「スマホで買えますよ」と言ったって「そんなこと知ってるよ」と言われてしまうだけかもしれない。
しばらく前にTwitterで「お年寄りがエアコンを使いたがらないのは、エアコンの操作方法がわからなくて、そんな自分が嫌になるのが嫌だから」という話を見かけた。使いたくない理由には他にも「エアコンの風が嫌いだから」とか「経済的にエアコン代が厳しい」とか色々考えられるし、本当に「使い方が分からない自分が嫌」が支配的な理由かは疑わしいと思う一方で、そんな理由も一定数はあるのかもしれないとも思った。
当たり前にみんながやっていることができない、世間や社会から自分が阻害されていると突きつけられるのは、とてもつらい。それなりに一生懸命に生きてきて、もうだいたい自分の人生も終盤だなと思ったところで、自分の存在を否定されるような目に合うのは嫌だ。そういうのは見ないように、心穏やかに生きていたいとしても、それは自然な心の働きだろうかという気もする。
この前バラエティ番組の「マツコ&有吉 かりそめ天国」で、マツコ・デラックスがマイレージやポイントを全然利用していない、昔は貯めていたが失効したのがショックでそれ以来使っていなかったらもう今何がどうなっているのか分からない、というようなことを言っていた。それに対して有吉弘行はポイントを上手に使っている、アマゾンの買い物は他のマイレージをギフト券に交換して支払っているからほとんどお金を遣っていない、というような話をして、デラックスがショックを受けるという内容だった。デラックスは世の中の仕組みにずっとキャッチアップせずに過ごしてきた自分を改めて自覚してそのことにショックを受けているようだった。
個人の理解力の有無というより、共通理解・共通認識が形成されていく過程にどれだけ参加してきたかで、「世の中に置き去りにされる」かどうかがかなり決まってしまうのしれない。
自分自身を振り返っても、10代や20代前半の頃は新しいウェブサービスが出てきたらとりあえずやってみる、くらいのフットワークがあった。でも最近は例えばSpotifyやNetflixや色んなサブスクサービスがあるなとは思っても結局何も入っていない。(と思ったけどdアニメストアとTimesカープラスには入っていた。全然使ってなくてほとんど月額料金をただ払ってるだけに近い……)
漠然とした想像でしかないけど、そうやって10年、20年後にレガシーなサービス(TSUTAYAのDVDレンタルとか)が、新方式の普及率9割で、1割の人のために古い方式の維持がもう割に合わない、費用対効果に見合わないからとパッと消えていきなり放り出されてから「じゃあ適応していこう」だと、もうかなり大変かもしれないみたいな不安がある。
キャッチアップしなくなったのは、自分の興味や関心の方向が定まってきたからなんじゃないかという気がしている。有限な時間の使い方・振り分け方をコントロールしたいという感覚がより強くなっている。(というより「時間は有限だ」という感覚が、年齢を重ねると強くなってくるというか。)昔は自分に合うかどうか、面白いかどうかは知らんけどとにかくやってみよう、それから考えようという態度だった。でも今はほとんど無意識に、自分にとって必要なことかどうか、時間を費やす優先順位がどうかを考えて取捨選択している気がする。それは仕事を始めて余暇の時間が減ったからかもしれないし、既に取り組んでいることにもっとちゃんと注力したいと思っているからかもしれない。好奇心の総量自体は変わらなくても、その方向や幅が固まってきている。そのこと自体は全然悪いことじゃなくても、ただその副作用として取り残される。
ポイントの話にしたって、別にお金はそれなりにあるし、数百円のお得のために複雑なポイントシステムの理解や管理に手間ひまをかけるのは無駄だ、というのは一種の合理的な判断になっている。でもポイントの仕組みが拡大されたりしていくうちに無視できないような損得が生まれてくる。例えば今スタートしているマイナポイントだって、既存のキャッシュレスサービスやポイント制度に乗っかって政府が始めた施策で、還元率25%はかなり大きい。これもキャッシュレスやポイントサービスをもともと知っている人とそうでない人とでは「利用するために理解しないといけないこと」の差がもう大きくなってる。
要否の「合理的な判断」が、その時点では良くても10年、20年の単位で後から振り返ってみると、実は最初の時点で適応しておいた方が有利だった、ということが起こってくる。しかもそれはその最初の時点では分からなくて「後から振り返って」初めて判定できることだったりするから難しい。
仕事で強制的に新しいシステムが導入されて使わざるを得なくなれば使うし、始めるきっかけさえあれば「もっと上手く/効率的に使えるようになりたい」と思って勉強したり習得したりできる。そうやって強制的にシステムと伴走して人間の方もアップデートさせてくれれば大丈夫だけど、日常的なサービスやシステムだとなかなかきっかけがなかったりする。
古いやり方でやれているからさしあたりそのままで行く、と曖昧に判断しているといつの日にか、普及率9割になって1割の人のために古い方式を残しておくのは割に合わないという話になっていきなりハシゴを外される。もうみんなは階段を一段ずつ上ってはるかに高いところにいるけれど、自分にはどこに手をかけていいかわからない崖が目の前にあるだけだ。頑張ってフリークライミングに挑戦してみるけれど素人なのでどうしようもなくて諦める。便利だけどバリアフリーじゃない世界になってる。
世の中は「ちょっと便利」「ちょっとお得」の積み重ねで進んでいく。それは(厳密には離散的だけど)ほとんど連続的になっている。でも積層されたそれがいきなり「かなり不便」「かなり損」に一気に、不連続に転換するポイントがある。
中年や高齢者が世の中についていけなくなるという話を、好奇心や能力の問題と単純化して捉えてしまうと、「自分は頭悪くないし大丈夫」とか「老人は衰えてるからついていけないのは当たり前」という話になってしまう。でもそうではなくて、頭がいい悪いとか記憶力がどうとかに限った話じゃなくて、もっと構造的にみんな取り残される可能性がある、と捉えられればまだしも建設的というかやりようがあるのかもしれないと思っている。
「能力の衰え」ではなく、一種の「成熟」、効率的・合理的な選択がもたらす結果として、いつの間にか世の中についていけなくなっている。
じゃあどうするのかという話で、理想的には誰も取り残されないようにしようバリアフリーをやろう、と言えるのかもしれないけれど、現実的にはどこまでコストをかけられるのかという話になってしまう。
システム側なり世の中側で無際限に優しくはしてくれないというのなら、個人で対応していくしかない。それもバランスの話で、若い頃みたいに(意味があるかないかは気にせず)全部突っ込んで体験していけないなら、取捨選択するほかない。それでもたまに(あれ、自分ギリギリこれ取り残されかけてるな)と感じたタイミングで面倒臭がらずに勉強なり習得なりする。ずっとキャッチアップするよりは入るのに少しハードルが高いかもしれないけれど、完全に崖になる前に入る。この「面倒臭がらずに」のタイミングをやり過ごすと、取り返しがつかなくなってもう登れなくなる、かなりの不自由や損を甘受させられるんだ、という怖さを認識してやるほかないんだろうか。
あのデラックスの狼狽は、「たかがポイントくらいのことで『ヤバイ』と本気で騒ぐ落差が面白い」と単純にバラエティ番組のおかしさで見るというより、(対応レベルが自分と同じくらいと思っていた)有吉がしっかりキャッチアップしているのを知って、実は自分が「仕組み」に取り残されるかどうかの岐路に立たされているのではとふいに思い知って慄いた瞬間、と捉える方がよりデラックス当人の実感に近いのではないかと想像している。40代後半の人のリアルで正確な恐れを見せてくれたんだと考えた方がいいのだと思っている。
デラックスは番組の中で「ちょっとアタシもあらためて始めようかしら」というようなことを言っていたと記憶している。個人としてできるのは結局、ヤバイと感じたら面倒でも(自分には必要ない、興味ない、別に今困ってないと思っていても)やってくしかないのかもと現時点では考えていて、自分もちょっと気を付けていこうかなと思って。