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いじめが減らないのはいじめが赦されないから

いじめが世界から全くなくなることは恐らくないだろうが、今よりマシにする手立てはまだ随分残されているように思う。

例えばそれはいじめる側の心理をよく知ることだ。

いじめる側がどのようにいじめる相手を選び、どのように人知れずいじめを行い、どのように自分がいじめることを正当化するのか。

実のところ私たちはそれをよく知らない。

それらをもっとよく知ればこれから起こるかもしれないいじめへの対策もしやすいし、今現在進行しているいじめをやめるよう求める交渉もやりやすくなるだろう。

「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」というやつだ。

 

さて、これを実際に進めるには過去にいじめを行った人間の協力が必須になってくるわけだが、ここでこの方法が実際にはうまく機能していない原因が出現する。

過去にいじめを行った人間がなかなか名乗りをあげて協力してくれないのだ。

その理由はひとえに過去に行ったいじめが赦されないことにある。

 

いじめは醜悪だ。

だから「赦してたまるものか」という言い分は勿論よくわかる。

しかし「赦されない以上名乗り出ても得が無い」という言い分もまたよくわかる。

「すべてお前が悪い、お前は異常者だ、人間のクズだ」と罵倒されるとわかっていて名乗り出る人間がいればその方がよっぽど変わり者だ。

それは悪い報告を受けたところで何の協力もせず対応案も示さずただ無闇に叱責するだけの上司にはなかなか報告があがってこないことに似ている。

 

「過去いじめを行った事実を悔いて償うつもりが本当にあるのならばそれでもなお名乗り出るべきだ」。

これもまた正論ではあるが、もともといじめを行ってしまうような人間にそこまでの誠実さを期待する方がどうかしている。

ともあれこの膠着状態を打開してことを前進させるにはまず彼らを赦すことが必要となってしまうのだ。

 

「悪いのは全て向こう側なのに何故わたしたちが歩み寄らなくてはならないのだ」。

それは悪いほうがより未熟だからだ。

何も悪いことをしていない人間と悪いことをしてしまった人間がいた場合、後者の方がより未熟なのは誰の目にも明らかだ。

他者と共同で物事を進めようとする時、相対的に未熟ではない人間が相対的に未熟な人間に歩み寄ってやらなくてはならない。

これは「そうあるべきだ」という性質の話ではなく「どうやらそうしない限りうまくは進まないらしい」というどちらかと言えば物理法則に似たような話だ。

 

とは言え、それでもなお赦せないという言い分はわかるしそれを諌めることは誰にもできない。

いじめを行った人間が未熟であることは間違いないが、それ以外の人間がみな未熟な人間に歩み寄れるとは思わないしそうあるべきだとまでは私も求められない。

ただ、現状をより前進させるためにはどうしても赦すという態度が必要になってくるという、どちらかと言えば物理法則に似たような話である。

 

ところで、この話はいじめに限らず、被害者と加害者がいて成り立つあらゆる事象について言えることである。

つまりは昔より幾分マシになった何かがあるならば、その陰には加害者を赦してでも改善を目指した人間が必ずいたはずだ。

その問題にコミットして改善しようと思う人間であればあるほど、加害者を赦すことが困難であることは想像に難しくない。

それでもなお赦し、現状を少しでもマシにしようと努めた先人たちの努力によって、私たちは昔よりかは幾分マシな世の中で生きていられるということを忘れてはならない。

 

赦すということは何も加害者を咎めないということではない。

ただ癇癪を起こすのではなく毅然とした態度で理知的な対話を行うということである。

繰り返すにそれは決して簡単なことではない。誰にでもできることではない。容易に他人に求められることでもない。

しかし、それでもなお赦すことこそが現状をマシにするための足掛かりとなりそうな厄介な問題が、残念ながら世の中にはまだまだたくさんありそうだ。

 

そういえば、どうしてこんな当たり前の話をなんでわざわざ僕はしようと思ったんだっけか。

そうだ。

自分は関係ない部外者だと決め込んでコミットする気もないからこそ、安易に無責任になんでもかんでも赦さない人間の声が最近やたらにでかすぎると思ったからだった。

 

以上、股潜牙二郎(またくぐり きばじろう)でした。