青ヶ島について

青ヶ島の概要
村章 |
![]() 紋章の外円は青ヶ島の島形と無限永遠性、大きな〝▽〟は火口カルデラ、小さな〝△〟は内輪山を示しています。 |
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村の花、村の鳥、 村の木、村の魚 |
村の花 タメトモユリ
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沿革 | S15.04.01 普通町村制施行 S63.10.01 村名称表示統一 |
面積 | 5.96㎢ |
人口 | 161人(R6.10.1現在) |
人口密度 | 35.8人/㎢(H17国勢調査) |
人口伸率 | 5.4%(H17国勢調査) |
世帯 | 114世帯(R6.10.1現在) |
役場所在地 | 〒100-1701東京都青ケ島村無番地 電話:04996-9-0111 FAX:04996-9-0001 |
村長 | 佐々木 宏(ささき ひろし) |
職員数 | 全部門28人(R6.10.1現在) |
特産品 | 青酎(焼酎)、オオタニワタリ、ひんぎゃの塩、島だれ、切り葉 |
観光行事 | 牛祭り(8月) |
名所・旧跡 | 池之沢、大凸部、大里神社、東台所神社 |
歴史
黒潮のまんなかにぽつりと浮かぶこの島が、いつあらわれ人が住むようになったのか、はっきりしたことは分からない。けれども、青ヶ島の歴史はこの黒潮とともに流れてきたといってもいいでしょう。はじめてこの島に住んだ人は、きっと黒潮に運ばれてきたに違いないのです。
青ヶ島がはじめて歴史上に登場するのは15世紀に入ってから。しかし、その内容は船の遭難などの海難事故の記録ばかり。当時の海上交通がいかに困難であったかをしのばせます。
この青ヶ島の歴史に大きな一石を投じたのが、天明5(1785)年に起こった天明の大噴火。島民200人余りが70㎞離れた隣島の八丈島へ逃れ、青ヶ島は無人島と化したのです。佐々木次郎太夫らが島民の先頭にたち、ふるさと青ヶ島へ還住を果たしたのは、天保6(1835)年、約半世紀も後のことでした。
還住時の人口は240人ほど、半世紀後の明治14年には、最大人口754人を記録します。しかし、年に2回小笠原へ行く船が青ヶ島へ寄港するようになり、小笠原諸島などへの流出がはじまります。それからはだいたい400人ぐらいでの人口推移。明治38年には東海汽船のマミノエ丸が寄港し、青ヶ島への定期航路がはじまりました。こうして、絶海の孤島に近かった青ヶ島も本土との交流と発展がはじまり、昭和15年には村青ヶ島村へと独立、人口407人での出発でした。
気候・面積・人口
東京の南358㎞、八丈島から68㎞の洋上、伊豆諸島最南端に位置する青ヶ島は、緯度からいえば九州の宮崎県とほぼ同じ。島全体を黒潮暖流の流れに包まれ、年間平均気温では東京はもちろん宮崎県よりもいくらか高く、一年を通じて10~25℃と温暖な気候です。ただ、青ヶ島の集落がいずれも標高250m以上にあるため、いったん島に上がれば八丈島などほかの島々よりやや涼しく感じられます。そのほか、湿度が年間平均85%と伊豆諸島のなかで特別高いことが、青ヶ島の気象を特徴づけています。春特有の嵐や梅雨、秋の台風には注意が必要です。